『老いの渇望』
28 兵庫県政問題からの深掘り
2024/08/17
昔小学校の教員をやっていた頃、不登校や登校拒否といった事象が起こり、話題ともなり、社会的問題ともなった。同時に、いじめ問題も多発したと記憶している。これらに関連したことは、『教育の屋根裏部屋』の文章のいくつかとして記述したことも覚えている。
当時のわたしは、こうしたことが起こる可能性はどの学校にもあることだと考えたし、教育制度や学校の存続に関わる根幹の問題提起をしていると捉えた。本来であれば教育活動をすべて停止して、先生も学校も、この問題の解に取り組むべきだと思った。もちろんそのことも文章に記述したが、この件に関して学校が、先生たちが、そのように動くことはなかった。わたし自身はこの時に、現実社会はもちろん、教育世界全般に対し、ものすごい違和感を覚えた。どの学校も、何事もないかのように、平然と日常の教育活動を続けていた。唯一行われていたことは、そうしたことが起こる前に子どもたちの生活に視線を注ぎ、それとなく予防や防止に努めることだった。
わたしの考えでは、実際に教育的活動を行う現場においてそれを拒否したり、逸脱したり、非教育的な行いが止める間もなく現実的なものとなっているとすれば、それはもう教育的な前提が壊れているのであって、知識や道徳の注入どころの話ではないということだった。
あれから、30年か40年近くたった。
ホリエモン51歳。ひろゆき47歳。成田悠輔39歳。石丸伸二41歳。言わずと知れた若者たちのカリスマ、論破の精鋭たちの中で任意に思い浮かべることの出来る人たちだ。もちろんこの人たちの他にも、あちこちのメディアに台頭するこの世代の人はたくさんいる。
そして現在、特にYouTubeにおいて連日賑わいを見せている兵庫県知事の斉藤元彦46歳。彼の記者会見における応答は圧巻で、壊れた機械のようにただ己の主張を繰り返して精密である。
兵庫県政には何の縁もなく関心もなく、また斉藤知事のこともYouTubeで話題になったので知った程度で、彼の人間性などについてどうこう言える立場でもないし、言う気もない。ただ一連の騒ぎを知ったり見たりしている中で、教員時代に似た感想を持った。
一部の子どもたちではあるが、学校および教育的現実を拒否したり、もっと過激にいえば否定する姿勢を見せる時に、それは学校や教育と子どもとの関係が教育的関係ではなくなったことを意味するものであって、第一にそれをどう修復するべきかが問題になるはずである。その際に、多くの人は学校も変わる必要があるが、児童も変わる必要があると考えがちだ。あるいは学校は根幹では変わりようがないから、多く児童の変容を望む。手を変え品を変えして懐柔策を取り、元の平常時の姿に戻ってもらおうとする。だが、わたしに言わせればこれは、一方的に学校や教育の側が責任を負うべき問題としか思えない。なぜなら、半ば義務的に、強制的に児童に教育を課す体制を学校や教育は取っており、当然のことながらどんな子どもにも対応が準備されていてしかるべきだからだ。児童の拒否は、体制の不備を物語っている。はっきり言って学校や教育の側は、児童の反乱を過小評価した。
翻って兵庫県政の問題は、県政内において二名の自殺者を出した。その時点でもはや兵庫県政は、県政の停滞だとか危機的状況どころの話ではなくなっている。自殺者を出す公的な組織、機関、機構がそのままずるずると県政を執り行ってよいはずがない。その資格がなくなったと考えてもよいくらいだ。いや、そんなことを引き起こすどんな組織、機関も即刻機能を停止してしかるべきなのだ。たとえそれで県政が停滞し、みんなが大いに困るとしても、それはもう我慢してもらえばいいだけなのだ。人が死んでいるのだ。困るにしても我慢するにしても、死以上のことではあるまい。
わたしが以上のふたつについて考えるのは、学校でも県政でもその現場で起こる不都合は、問題が本質的で根幹に関わるのであればあるほど現場では対処しきれないと言うことだ。乱暴な言い方をすれば、学校を無くしたり県政という制度や仕組みを無くせば、その問題は二度と起きない。しかし学校にも地方自治の機関、組織にもその権限はない。では国が責任を取るかというと、文科省や総務省などに丸投げしているから、まずそんなことはしない。つまり現在の国家の機構や制度や仕組みはその程度のものなので、全体として問題が生じた時に自浄作用が働かず、だからどんなに繰り返し問題が起きても表面的に沈静化させて終わる。そして同じようなことは場所や地域を変え、繰り返し起き続けることになっている。わたしからすれば、もともと誰のものでもない自然の野や山や海に線引きをし、われわれの縄張りだと主張した頃から無理筋であって、古代の国制度から近代国家へと持ち込んだ支配と被支配の関係に内在する矛盾が解消されずにいることが遠因であり、また宿命的だとしか考えられないのだ。
このような最終的には国家というものに行き着くさまざまな問題は、いろいろな分野領域に起きて存在していると思える。そして国家に遠く起因する諸問題は、国家の消滅無くして解消することはあり得ない。
では、国家を消滅させることが出来れば、人間社会に起きるすべての人間的な齟齬や不幸な出来事、そうした現象は皆無になるかと言えば、新たに国家が無いために起こる人間的な齟齬や不幸の現象は、もしかするとそれ以上の規模で起こるかも知れない。これでは誰もまともに国家の消滅を考える筈がないし、考える方がおかしい、と、多くの人は考えるかも知れない。わたしもまた否応なくそこで立ち止まる。
だがしかし、人間社会に起き、また起きるかも知れないさまざまな齟齬や諍い、不幸な出来事とと言うものには、許容するほかないものと、どうしても許してはおけないものとの「別」が有るのでは無いか。たまたま挙げた上記の二例は、わたしにとっては後者の問題に属する。詰めて推理してやっと主犯格に到達しても、主犯格にはそうした意識も自覚もなく、自省すらない。蓋を開ければそこには無責任な無人格が居座っているだけなのだ。そんなもののために、わたしたちは舞台上で糸のない操り人形を演じなければならない。人として、生き物として、生命あるものとして、これ以上の屈辱はあるまいとついわたしは感じてしまう。