緻密に、精密にと進むようです。
例えば昔先生をしていた頃、「教育関係法規」なんてものがあってパラパラ捲ってみたことはあるんですが、細かい文字でたくさん書いてあって、即降参でした。
「六法全書」がありますが、それで全部じゃないですから。改正も含め、新しい法律もたくさん作られているようです。一番法曹界の人が大変なのでしょうが、留まるところを知らない勢いで増えて行くのでしょうか。想像するだけで恐ろしい。パニックになりそうです。
一般の社会人は、そのようにして成り立っている社会に生活しながら、直に法律とで合うことは稀ですし、多分よく分からないのがほとんどだと思います。
弁護士が繁盛するし、悪用する輩も増えますね。作る時はよいと思って作るのでしょうが、その時は国民の負担になるなどのことは考えもしていないのでしょうね。金がないと裁判も起こせないし、なんだかやっぱり結果としては金持ちに都合のよい仕組みです。
2025年7月5日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「告白の方程式」です。
個人的には縁がなくなりましたが、社会を騒がせる色恋沙汰は大昔から現在まで、依然として中心を占める問題の一つであるようです。
そのなかでも告白は、間接的な自己表出欲、表現欲、表出欲の最たるものです。
告白は言葉の表現ですから、それ自体が間接的で、迂回した欲望です。欲望を直接的行為的に表出すると、極端な言い方をすると強姦ということになるでしょうか。それから言うと、ものすごく回りくどくやっている訳です。動物から距離を置くようになった人間は、そうなってきた訳です。
一応、人間はそう進んできたので、だいたいその流れで言うと、紳士淑女的に相手に「好き」と言うことをまず伝えます。これがね、なかなかタイミングが合わなくて、いろいろと難しいのですね。
今日の作は、ぼく自身の「告白の方程式」を引用したものです。告白しては倒壊、沈没を繰り返しました。それでね、辛い思いをたくさんした訳です。けれどもそれがね、実人間、実社会を知る上でとても為になった、そこからたくさん学んだ、そう思います。
ぼくの場合は、これ以外のことではあまり自分から能動的に働きかけると言うことはなかったのです。それで頑張ってやって、案の定、叩きつけられて、跳ね返されて,苦しく悲しい思いをたくさんしました。で、そのこと自体は面白くはないけど、勉強には成りました。一生懸命、いろいろなことを考える契機にはなったと思います。七転び八起きですかね。いろいろあるんだよということになると思います。
2025年7月4日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「消えて行く記憶」です。
今回の作のように、突然脈絡もなく昔のことを思い出すと言うことはあると思います。今回ですと日常のほんの些細な場面で、時間帯なのか、明暗を伴う情景なのか、昔感じた感覚と同じ感覚が降りてくることがあります。
そういうことは他人に通じない、他人と共有できないとすぐに判断されてしまうもののようです。そのことは何も重要事でもなくて、ほんの些細な一瞬なのですが、何となく去りがたくて、心の陰影として少しの間引き摺る訳です。で、そのうちに奥にしまい込まれるのか消え去るかして忘れてしまいます。
内容的なことは別にして言えば、そんなことの頻度は数としては結構な数かも知れません。たいてい忘れますから,何度とも言えませんが、結構やってるよなと思います。意味も価値もないのですが、「あっ」と思って、そしてそのまま白昼に消えて。
タイトルは、はじめに「身体記憶」と考えて、そこから「内臓記憶」、「臓器記憶」など変遷しました。いずれも不明瞭さがあったので、ぼんやりとただの記憶として、それはおそらく生涯に何度も繰り返して興り、また消えて行くので今回のタイトルに妥協しました。
無意識に興る反射のようなものだと思うのですが、どうしてこう言うことをしているのかなとか、必要なのかなとか、合理的じゃないよなとか、功利的でもないなとか、いろいろに思いますが、さっぱり分かりません。成ってるもんはしょうがない、認めろ。
それで終わり。そういうことでしょうが、このわからなさの面白さ、年取ったらこういうことでも楽しさと勘定しなければやっていけません。そう締めくくってこれは終わりとします。
2025年7月3日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「老後を行く」です。
「一寸先は闇」という昔からの言葉がありますが、考えてみると、今の1秒先は未明で未経験で闇の中です。でも1秒ですからすぐに現在になってしまい、既知になります。未明から既知を通過する連続が生命的な体験とも言えます。本当は1秒後は体験できませんから闇であって、1秒後1秒後と見て行きますと、闇闇闇と続きます。
人間に限らず生き物というものは、そういう所を生きているのだなあと改めて思い、また不思議な気がします。人間はこれを連続するもののように扱いますが、厳密に言うと非連続の連続であって、残像という現象を伴い、これを連続するもののように見なしているのだと思います。これは生き物の受け入れ方の仕組みや構造の問題で、自然の現象とは無関係で、一種生き物の戦略でしょう。そうしないと生きていけないのでそうなっていると思います。
こういうことを考えるときりがないので止めます。現実に戻れば現実なりの問題も山積みな訳で、処理することを求められます。忙しいですし、人間の脳の処理能力がはたして耐えられるのかという問題も生じます。そんなことは知ったこっちゃねえと逃げることも時に必要です。
2025年7月2日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「〈なみ〉の方角」です。
タイトルの〈なみ〉は「波」ではなく、「通常」の意味合いで使いました。
普通とか通常とか、そういう方角を目指して来たという感覚があるので、それを受けてのタイトルということになりますか。まあ、でもそれほど考えてのことではありません。いつも通りの即興です。
ただ、そういう心づもりで進んだのに、普通でも通常でもないなと言う戸惑いはあります。全然違ったじゃないか、と言うことと、社会が言うところの「普通」が、その内側に入り込んでみると少しも「普通」じゃないと、そういう二つのことに突き当たった気がしています。
こういう心的な経験、心的な体験というものは、なかなか人と共有できないところで、ひとりでこそこそ観察したり研究したりするほかないですね。喪失ばかりで得るものはないです。
いずれにしてももう引き返すことも出来ませんから、ずるずると前に進むほかないということになりますかね。そういう現状ですが、毎日の作もそうですし、それなりの生き甲斐めいたものは皆無な訳でもありません。針に糸を通すような集中、緊張も口にはしませんが、あることはあるのです。自分で元気を調達しながらどこまで進むことが出来るのか。ほぼほぼアメーバと変わらない動きなんだなって、自分のことを思います。動ける間は動く、ただそれだけのようです。
2025年7月1日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「寂しさの現在」です。
頭で理解していると言うことと、例えば現在加齢や老化に直面して実感することとはずいぶん違います。未体験を体験している渦中ですから、理解もなにも、頭の中の既知の理解事項は何の役にも立ちません。何も、と言いきるのは少し言いいすぎかも知れませんが、そう言いたいくらいのことを現在進行形の形で体験している訳です。で、この辺からはもう共有できないくらい、個々の断絶が大きくなる気がします。
自分の老後体験は自分で観察しないと、誰も目を向けない訳ですから、自分で観察していくしかありません。観察して報告して、同じような報告をしてくれている人がいれば、その人との比較が出来ることになります。事例はたくさんあった方がいいと思います。今のところは既知の理解事項が多くて、通念的通俗的なそれに引っ張られて行きがちです。本格的な人間の老後というのはこれからではないでしょうか。
2025年6月30日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「80億人分の1」です。
世界の人口が80億人を超えているらしいのですが、それを知って感じたことを書いてみました。
まず80億人のですね、生き方が誰一人同じと言うことがないことを考えて、改めて少し驚きましたです。考えれば当たり前のことですが、みんな違った生き方と言うことは、生きて感じ考えることもみな違っている訳です。その差異は、時に、千里の径庭のように思える時もあるのです。そこで切り取って言えば、それが80億ですから、千里の径庭も80億通りです。
それだけでなくて、全ての生き物に敷衍して考えると、とんでもない天文学的な数になります。それがみな生き方も感覚も全てに差異があるとなると、理解と言うことに絶望的になります。
宇宙に星雲としてかたまりを作っても、星々は単体で孤立し、孤独です。実際には他との距離な大きく、ポツンポツンと存在しています。それぞれに関係があるとすれば引力の作用だけ。1個1個を擬人化しますと、会話も成り立たない中で存在していることになります。
人間も言葉のなかった時代がありますから、星々の引力のような、そんなコミュニケーションしかなかったと想像できます。でも、本当は、それが初源で、基礎であり基本なのではないでしょうか。もちろんそれが根本にありますから、言葉を使うようになった現在でも、バックヤードでそれが働き続けていることは間違いなくそうだと思います。
で、それがどうしたということになりますが、ちょうど時間ということになってしまいまして、ここで終わらせていただくと言うことに相成ります。ここまでのお付き合いありがたく、御礼申し上げます。(お囃子と拍手)
2025年6月29日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「言ってみたいだけ」です。
「てならいのうた」を始めた頃はバイトをやっていたと思います。時間の捻出に苦労していたと思いますが、何となくコツを掴んで毎日続けられるようになりました。特別毎日書き続けることを課していたのではないですが、何となく行けそうだなと言う気がしました。
バイトを辞めて時間的な余裕が出来て余裕かなと言うと、思いのほかそうでもないですね。逆に集中度が低下した気もします。だらだらしてしまうと言うことです。反省ですね。
2025年6月28日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「〈範囲〉考」です。
現在の世界人口が80億くらいですか。で、日本は1億2千万強。
もちろんいろんな人が居て、いろんな人生があり、悲喜こもごもに現在を構成し、また現在を更新して行っています。ある範囲内で流動しているのが常態ともなっています。
小学校教員時代に、子どもたちがどういう大人になっていくのかなと考えた時に、考えるまでもなく未来は現在の中にある訳で、その先にはただ顔をすげ替えただけの社会構成があるとことになります。つまり、現在存在している大人たち、百人百様ですが、同じように百人百様になって行くのだと思いました。そこには大雑把に言って公務員もいれば民間人もいて、犯罪者もいれば警官もいます。また大雑把に言えば十年前も二十年前も同じだったし、当分の未来もまた同じで、変わらないという気がしました。もっと言うと、ほったらかしにしたってそういうことになるし、先生たち全員
が気合いを入れて教育したって、おんなじだろうって思いました。また、自分が先生だろうが、代わりにほかの誰かが先生をしようが、変わらないだろうとも思いました。
そこのところでは、誰が先生をやったって変わり栄えしないよ、と思いました。最終的には現在の社会の大人たちと同様に社会に散らばっていく訳ですから。
急に先生がよくて、教育がよくなって、社会が善人だらけ、聖人だらけになるなんて、そんな想像をする人はいないでしょう。
現在の社会の構図ってのは、50年くらいはほぼ同じように継続しています。ぱっと見の形がパターン化し、常態化しています。そしてこの常態化を根本から変えようという動きはさらさらない訳です。言葉を換えれば、国民全員で容認さえしています。小さな文句や苦情はたくさん出ますが、では自分がそれを変えようというのはいない訳です。これも変えるふりをする人はたくさんいますが、なんせ口だけで、勉強もしていなければ自分で分析、解析する人もいない訳です。出来る訳がないです。出来ないからしないのは、容認していることと同じです。そうしますとそれは、子どもたちが今の大人たちのように散らばっていくのを容認するのと同じです。
今の教育、今の教育界は楽勝ですよ。子どもの行く先は決まっているんですから。将来の犯罪者、引きこもり者自体がもう容認の中にあり、容認されている以上これを育成しても、それで普通な訳です。行き先は決まっているから教育は素通りさせていけばいい訳です。幼稚園から送り込まれた子を、大過なく中学に送り出せばいいのです。最終的に高校か大学から社会の中に送り込めば、半ば自動的に現在の大人たちの有り様のどれかに誘引され、はまっていく訳です。それは、今の社会では一般的で常識的な子どもたちの未来です。
ちょっと佳境に入ってきたところですが、長くなりそうなのでここで中断することにします。針に糸を通すような、慎重に論を進めなければならないところなんです。元気、気力があればですが、いつかこの先を考察しなければいけないとは考えますが、
厭だな、とも思っています。
2025年6月27日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「クーデター」です。
階層があり上下があると、ただそれがあるだけで上から下へのいじめが成立する。これは上が優しいかどうか、思いやりがあるかどうかとは無関係に成立してしまう。クーデターが起こる根拠のひとつはそれだ。階層があり上下があると、いじめが成立し、下にあるものはいじめに忍従するか反発してクーデターを起こすのどちらかになる。上が階層を容認し、上下を解消しないでいる限り、したたかな懐柔策を持ってしてもクーデターを完全になくすことは出来ない。
いじめの場合、やられたらやり返すのが鉄則だ。躊躇してはいけない。反発して初めていじめる側は気づき、心が揺らぐ。そうなれば、初期の一時的ないじめは解消したと同じだ。大事なことは、互いにそれ以上深追いをしないことだ。
階層、階級は制度的なものから来るものだから、単にクーデターを起こしただけでは済まない。階層階級が消滅するまでは繰り返し続く。国レベルのクーデターも過去に何度も起きている。これは政権が移動するだけで、何度も移動されたが階層や階級の制度そのものは残り続けたから、やはりクーデターは誘発されるのである。警察や軍隊などで抑止しても、絶対に抑止しきれないものだとは歴史が証明している。
階層、階級がだめなものだとははっきりしている。つまり抗争はずっと続くと言うことだ。そして大事なことは上にも下にも正義も大義も存在しないと言うことだ。上からも下からも、階層、階級の構図と構造とが消滅させるような模索が為されなければ、永久に解決しない。気の遠くなるような話なので、もう止める。
2025年6月26日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「そんな時代じゃないんだな」です。
テレビをつけると、どこかのチャンネルで必ず、日本をどうするかとかこの国をどうするとかの発言を聞く。たいていの場合、発言者の口から出る「日本」や「国」が、これらの言葉に対する現在的な認識の水準にあることは承知するが、それ以下でもそれ以上でもない。つまり一般的な認識であり、停滞した認識だとも言える。分かりやすく言えば通俗的な認識である。そういう認識の元に、この国をこうしなければならないとか、日本をこうして行こうとかいわれても、何ら目新しく感じない。小手先だけの変化を、うんざりするほど言い続ける、そんな輩にしか見えてこない。
またそんなことが現実化に向かったとして、どういう結果になるかと言うことも繰り返し繰り返し見せられてきている。上手くいくことはまずない。だいたい行動に移すと、以前より悪くなり、じり貧になることが多い。
その辺の周囲を言葉化したかったのだが、疲れもあるのか、つい高倉健とか菅原文太とか石原裕次郎とかの名前を出すことになってしまった。最後の銀幕スターと言ってよいのか、彼らが活躍した頃は、映画を見終えた観客はみなスターになって、仁義なき戦いの中で仁義を貫く顔つきになっていた。
それが頭に浮かんで、後の勢いが少しそちらにシフトした。要するにちょっとそちらに流れてしまった。そうして書き切ってしまったので、修正も戻りも効かなくなった。そんな一篇となった。
2025年6月25日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「見送る」です。
毎日適当に、何なら掃除や洗濯と同じくらいの感覚で書くことをこなす感じでやってますけど、これがまあスムーズにこなせるようになって来ています。
今日のも一旦は、でまかせで一連二連と進んだんですが、そこから収束を考えて行く時にずいぶん手間取ってしまいました。一からやり直すことも考えました。
久しぶりに悪戦苦闘した、それだけのおしらせです。
もう一つお知らせしておきます。
これはお知らせていると思い込んでいたことですが、もしかすると言ってなかったかもしれません。一週間前くらいですかね。「掲示板」のなかでたびたび紹介しているnishiyanさんですが、今回も投稿してくれて、ぼくとの間で書簡のやりとりみたいなことをやってますので、ぜひ「掲示板」の方にも立ち寄ってください。よろしくお願いします。
2025年6月24日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「嘘」です。
NHKの土曜ドラマで、綾瀬はるか主演の「ひとりでしにたい」を見ました。シリアスな内容をドラマ化していますが、コミカルな要素をふんだんに盛り込んで、テンポよく軽快に仕上げていて面白かったです。
1話では、主人公が独身の三十代後半の会社に勤める女性で、未婚の叔母の孤独死という問題に直面します。自身もまだ未婚なので、まるっきりの人ごとではない訳です。そこからいろいろ話が展開していくのだと思いますが、まだ1話ですから、助走段階だと言うことだと思います。
まあ今日的な問題と言えば今日的な問題で、タイムリーな企画だとも言えましょう。たぶん最後まで、重くも暗くもならず、軽快にそしてコミカルに描かれると思いますが、そこにまた現代性、現在性というものを感じます。視聴してほしい訳ですから、どうしたら視聴してもらえるかを考えれば、そういう手法はとても重要だという気がします。老後、介護、孤独死などは大人な問題ですが、ひとりではなかなか考えが進まない領野でもありましょう。他人の考えも聞いてみたいと言うことで、ドラマの中に示される作者の考えは、参考にもなるでしょうし、共感が喚起されるのかも知れません。
そういう所とは少し別に、やはり、NHKはドラマを上手く作るなあと感心しました。そうして自分にもそうした表現の技巧がわずかでもあったらなあと羨ましく思ったという訳です。もっと頭を使って、考えて作って考えて作ってをたくさんしないとだめなんだろうなと思いました。なので、そうなるように頑張りたいと思います。
2025年6月23日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「最強の戦士」です。
今日もダサいタイトル、ダサい言葉遣いで不毛と徒労をやっております。
冒頭の偉い人は徳川家康を思い浮かべています。例の、人生は重い荷を負って山道を登るが如し、云々を言ったと伝えられています。大将軍として、さぞ重い荷を負ったことでしょう。ですがね、僕のヒーローたちはそんな比じゃありません。
家康が組み体操の一番上に君臨し、また一定程度君臨し続けるためには、バランスをはじめさまざまに工夫する必要があったでしょう。下手すると落っこちてピラミッドタワーの全体が総崩れになってしまいます。その責任も大きい訳です。けれどもそれは頂上で為す一瞬の技に過ぎない訳です。
頂上での一瞬の出来事に比べて、タワーの一番下でかがむ者たちは、はじめから最後までじっとタワーを支え続けています。それこそが金剛力でなくて何でしょう。
そこの人たちにスポットライトが当たっていれば、ぼくは特に言うことはないのです。だがそうなっていないですから、いつもみんなの反対ばかり言いたがるぼくは、やっぱり反対のことを言いたくなるのです。みんなが逆に下の人ばかり誉めて遇していたら、頂上に立つ難しさをもっと考えろと、たぶんぼくは真逆のことを言うと思います。要するに、平等に評価しましょうと言うことです。平等に評価する視座を、みんな持ちましょうと言うことです。
理想は、社会を構成することにおいて、タワー型は止めましょうと言うことだと思います。縄文以降、と言えるかどうか分かりませんが、歴史的社会はピラミッド形態を築きあげてきました。その形態を洗練させて、げんざいのしゃかいが成立していると言ってよいと思います。ピラミッド型としては完成形に近いと思います。それでも何か永遠の不具合が見つかるとすれば、こういう形態を変える、そんな課題が出てきます。でも、この先はぼくが考えることじゃないですよね。どなたかにお任せすると言うことになります。
さて、まだ6月の下旬ですが、夏日が続きそうですね。確実に季節外れて早くなってきた感じです。下手すると7月の末には秋が始まるとか。まあ、ちょっとずつずれる分には心構え一つで対応できるでしょうが、晩年にまで激動が続くものかと内心では思いますね。成熟どころの話ではないです。次々に局面が変わり、ずっと青臭いままでいなければならないし、また緊張感も持ち続けることになりそうですね。
総合的に考えると、若さを強いられてくる時代とでも言いましょうか。なかなか隠居風の爺さんにはなれないのかも知れないです。仕方がないので、これからも頑張りましょう。
2025年6月22日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「修羅への出口」です。
気楽に陽気に書いてみようと思ったら、このような作になりました。いつも長くてくどいので、短く書いてみたいとも思いました。
パチンコ台で「花の慶次」という機種があります。その中の決め台詞に「これより我ら修羅に入る」と言うことばがあり、これが好きです。もともと「花の慶次」と言うマンガがあり、物語の原作者と絵を描く漫画家がいると思います。そうしたもとの作者たちの意図、あるいはこれをパチンコ台に組み入れた製作者たちの意図がどういうものかは分かりませんが、自分の勝手な受け取り方で好きだと言うことになっていると思います。
深い意味はありません。カッコいいなと思っていて、時々脳裏に浮かぶ台詞と言うだけです。「これより我ら修羅に入る」。この雰囲気をちょっと借りてみた、それくらいです。
「修羅」と言えば宮沢賢治に「春と修羅」と言う詩と詩集とがあります。宮沢賢治は夭折してますから、もちろん若さを感じさせます。よぼよぼの「修羅」は想像できませんよね。若いエネルギーなり、壮年の力強さなり、「修羅」の言葉にはそんなイメージがつきまといます。
そんな「修羅」という言葉なり文字なりを年寄りが口にする面白さ、滑稽さ、そういうものが、真面目さの裏で出せたらいいなと考えていました。
2025年6月21日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「統括者と民」です。
ふっと伊達政宗の名前が湧いて、令和のこの時代でも政宗の名が出ると、なんとなく県内外を問わずこれを持ち上げる風潮が残っているなということを思った。
一応歴史上に名を残しているから敬意を持って遇するこの島国の常識故と思うが、本音を言うとそれほどの関心はない。
令和の今日で言えば、宮城県知事の村井さんと言うことになるが、こちらにしてもさしたる関心はない。
県民の多数は、ぼくとそれほど違わないと思う。ただ、テレビなのか新聞なのか、そういう統括者の名前を出す時に、敬意を持って遇する雰囲気があり、またそうすることが習慣のように続いているように思う。現実のそして実際の住民は、そんな意識はほとんど持ったことがないと思う。だが、巻き込み事故みたいに、そういう全体的な雰囲気の中に否応なくぼくらも巻き込まれてしまっているようだ。
宮城県民が、伊達政宗を誇っているようなテレビでの紹介の仕方などを見ていると、これは作られたもので嘘だと分かる。県民のほとんどは、ふだんは何の関心もなく過ごしている。テレビで取り上げられ、取材などされたら、仕方ないのでそれらしい答え方をすると思う。
県知事についても、一度も会ったこともないし話したこともない訳だから、興味も関心もない。遠い存在だし、時折名前を耳にするくらいだから、とっさに現在の知事は誰かと問われても名前が言えるかどうか分からない。いわば縁のない人のひとりだと言えるに過ぎない。
ぼくらがそうだから、伊達政宗の時代の藩内の農民たちも似たようなものと推測する。山奥の実家の集落のご先祖様たちも、藩主伊達政宗の名前は生涯に何度か耳にするくらいで、覚えていなかったかも知れない。
なんだか分からないが、上に君臨する存在があり、そこからの指示や命令に背いてはならないことだけは知っていた。そういう所では現在も似たような所にいて、近代現代と大きく変化を遂げても、何となくの構図はあまり変わっていないという気がする。そこからもう少し展開できればよいのだが、そこまでは行けないでしまった。
2025年6月20日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「次のステージの始まり」です。
意識は自身を万能と思い込んでいる。自分に対して神のように君臨している。特に身体に関しては無関心で、時に病気になって自分を苦しめる厄介な代物と考えることさえある。
それはちょうど社会という構図の中で、上層に君臨する指導層と下層に押し黙ったままの大衆との関係性によく似ている。指導層の主たる関心は大衆に向かっているのではない。指導層の意識そのものの外化である。意識の実現、自己実現である。大衆は、その為の条件、道具、位にしか考えられていない。
極端な言い方をすれば、意識はまぼろしである。嘘である。だが意識は自分がまぼろしで虚像、すなわち嘘だとは認識できない。逆に絶対だと信じ込んでいるのだから始末が悪い。だが、そんなふうに出来てしまっている。そんなふうに出来上がってしまっているので、これは変えようがない。
変えようがないが、変わらなければならない。どうすればいいかと言えば、意識的に、「俺は神でも絶対でもなく、主人公ですらない」と思い込む、その一点である。時々でいいから、忘れた頃にこれを思い出し、ハッと反省をする。それだけでよい。それだけで事態はまったく変わったものになる。これは人類史という長きにわたっての習性と習慣の否定みたいなことだからなかなか容認されないだろうが、ほぼほぼの人が薄々感じてきているのは間違いないことだと言える。
大きなことは言えないし言わない。個々人が時折このことを顧みる、それだけでいいのだ。強制も啓蒙もいらない。ただ思う。時々思う。それがとても重要なことだ。すぐにはなにも変わらないが、確実に変化は起きる。
2025年6月19日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「老いの今日」です。
生命を運動で見ると受容と出力になると考えるとします。これがもし真ならば、単細胞から多細胞に至る全ての生命体は、すべからくそれを繰り返していることになります。生命の基調ですから、単純に抽象化して考えてみると、そういうことになるような気がします。そうするとどんなに高度化し複雑化した、例えば人間のような生命体でも、おおもとはそれの繰り返しであって、要は受容と出力自体が複雑化し高度化していると考えられるように思います。
何が言いたいかというと、環境や環境が働きかけてくる刺激を受容し、同時に、環境に向かっての働きかけを出力するのが、全ての生命体が行っていることだと思うのです。つまり多様な生命体が多様な入出を繰り返しているのですが、その基調は入出という一点でまったく同じだと言えます。
そこまで考えてみると、これは素人考えですけれども、高度化複雑化した生命体をさらにいっそう高度に抽象化すると、単細胞単体に行き着く、あるいは単細胞単体と同じだというところまで行くんじゃないかという気がします。
つまり人間は言葉を使って知識をため込んだり技術を発展させたりしていて、高度で高級な生き物だとされていますが、それは単に気の遠くなるような複雑化を果たしただけで、本当は原始生物とさしたる違いはないのではないかと思えます。
なぜ生きるか、どう生きるか、時にぼくらはそう考えて悩むことがありますが、基本の基本に遡れば、原始生物みたいにただの反応の繰り返しだというのがホントの所だと思います。
さてそこで、次に、それでどうした、それがどうした、それが何だと言うことになると思います。ですが、それから先は非常に面倒なことなのでぼくはやりません。
ただこのように考えてくると、現在の人間社会のあの人もこの人も、みんな単細胞の化身と言うことになります。なんだ、と言うことになります。
そしてそれはそれだけのことです。その場にずっと佇んでいることは出来ません。人間社会の日常に立ち戻って、そこでの過ごし方に入り込んでいかなくてはなりません。乖離し、隔絶した生活です。そこに入り込んで頑張らねばなりません。皆さん、頑張りましょう。
2025年6月18日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「無知や非知の底力を舐めるな」です。
今日の作について言えば、ちょっと言い切れなかった気がします。タイトルをアレンジすると、子どもや大衆を舐めるな、と言うことですが、通用しないだろうなあとは思います。
ここからは一転、兵庫県問題について言います。
兵庫県知事の斉藤元彦に対して、かつて自らも大阪府知事でもあった橋下徹は、一貫して権力者の権力行使の仕方を間違えていると批判している。権力者としてやってはいけない権力の行使をしたと言う指摘だ。
それは何かと言うと、斉藤県政に対しての告発に対し、初動で犯人捜しをし、明らかにしてその告発者を徹底的に追い詰めて告発者潰しをしたことだ。
歴史的に見て、ある一つの組織や機関の長の行状に対して異を唱え、反抗した例は山ほどある。今回の兵庫県の告発も、そういう例の一つだ。
一通り目にすることの出来た範囲の内側で言えば、ぼくは斉藤元彦の度量の小ささが発端だと思う。告発内容が事実かどうかは別にして、拙速に潰しにかかったことは間違いないことで、要するに後先考えずに反射的に反応した結果が今日の県政のゴタゴタにまで繋がっている。
やましいことがあったのであれば、潔く辞職するのが筋だし、そうでなければデンと構えて状況の推移を見守るのが普通の対応だった。人間としての器が小さいので、反射的に保身に走り、拙速な対応をした。権力者としてはあまりに幼い対応だというほかない。
この問題の本質は上記のことに尽きる。斉藤元彦個人に特異性はない。ありふれてあほな権力者のひとりだと言えるに過ぎないと思う。ただ人間斉藤元彦については分からない、言及は出来ない。あちこちにいるただの頭の良さそうな人という、大雑把に言えばそんな印象を受ける。あとは誰もがそうであるように、時にやさしく、時に冷酷でと言った多重な側面を持っているに違いないとしか考えつかない。
この問題はありふれて人間的な、人間ならやりかねないという部分と、もう一つ、別の角度から派生するシステムの構築の問題との2つがあるように思える。敢えて短絡的な言い方をすると、人間性として大きく括って考えた時に、現行の社会システムは妥当なのかという問題として跳ね返る。そしてその答えとして、現状のシステム化では、これまでもこれからも、何度も繰り返されるとしか言いようがない。全体の仕組みが変わらないと、繰り返し人間はこんな事をやっちゃうよ、と言うことだ。
2025年6月17日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「ぼくならば言っちゃう」です。
政治は脳の働き、精神の働きを象徴する一つの分野だ。政治が社会の前面、表層、表立って騒がしかったり賑わったりする時は、いつも最悪の事態の前兆だ。気をつけなければいけない。理想を言えば、政治という分野や領域が社会的に死ねば、それは理想の社会と言える。政治家という種族も同じことだ。
今日の作で取り上げた造語の作り手安藤昌益は、実は漢字そのものについても作り替えを行っている。実例を挙げるほどに覚えているわけではないが、例えばで言うと、「作」の字の「にんべん」は「しんにょう」であるべきだとか、そういう類いのことを真面目に行っている文章がある。これは途方もないことだと思える。孔子や釈迦を批判したことも途方もないことだが、出来合いの文字、漢字を、これは間違いだからこう修正すべきだという主張は、それに輪をかけて途方もないことだ。マツコ流に言えば、「狂気の沙汰なんですけど」と言うことになる。
寡聞にしてこんなことは他に聞いたことはないし、安藤のその文章を正面から取り上げて批評している文章も見たことがない。いちどぼくも挑戦して論じてみようとしたが、漢字一文字一文字、また一画一画がどのように作られたかなどの素養が一切ないので諦めざるを得なかった。それについての安藤の文章もまた、ちんぷんかんぷんで、まったく歯が立たなかった。
これは誰がどう考えたって「暴挙」である。せいぜい一部の信者たちに、苦く容認されただけで、もし広く公開されれば黙殺か、あるいは狂人扱いされて終わるところだ。
けれども安藤はいたって本気で、大真面目にそれを語っている。
受け入れるかどうかは別にして、誰かひとりくらいは安藤の大真面目に付き合ってみるべきだとぼくは思った。なぜならば、安藤は少なくとも、感じが作られ始めた頃に遡って、そこまで自分を飛ばして考えているからである。つまり考えると言うことの、本当の誠実さというものがそこに内在するからだ。
つまりどう言えばよいだろうか。安藤のそこでの行いは、ぼくの好きな言葉で言えば、徒労と不毛の極致なのだ。知の働きとして、悪い意味ではなく、一線を越えていると感じるのは、この安藤昌益と島尾敏雄の2人である。この2人から見れば、太宰治や吉本隆明はぼくらと同じように一線のこちら側にいるとぼくには見えている。太宰治や吉本隆明の全貌は、何となくの推測がぼくらにも可能だ。だが安藤や島尾については、その全貌が想像さえ出来ない。もっとギリギリの場所に立っているように見える。
ぼくらの社会はそこに関わらなくても、何となくやって行けている。そんなところでは安藤や島尾が当面した問題の本質にまで降りて、自らも対峙する必要はどこにもないというべきである。黙殺され、忘れ去られて当然と言えば当然なのだ。けれども依然として、解明されない問題はそこに居座り続けるということも確かなことだ。
最後に吉本隆明の、「こういう人はたいていの場合は救いになりませんが、本当に困ったとき、まいったというときになると、こういう人がいることが人類にとってとても救いになると思います」と言う言葉を借りて、ここを終わる。
2025年6月16日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「〈知〉〈情〉のもつれ」です。
愛とは何かをずいぶん長い間考えてきたように思う。世の識者たちのようにではない。取説も用具も持たず、ただウンウン唸ってきただけだ。心に問う、自前のやり方を通してきた。
ビートルズ以降と言ってもいいのだろうか、愛は個的なものとしてではなく、愛は時代の言葉としてもてはやされるようになった。時に騒がしく、賑わってもいた。そうした潮流に、ひとり首をかしげて久しい。誤解を怖れずに言えば、愛はそんなふうに取り上げて語るべきものか、少し違うのではないか、そんな思いが交錯していた。
ところで、ある詩人の内省の言葉として、「自分は愛情が薄いかも知れない」と述べていたのを文章で見た。詩人はその理由を自らに問い、知的な思考の習慣がそれをもたらしたのではないかと結論づけていた。それを読んでハッと思った。愛が心に宿ることと、愛を考えることとは違う。
意識という器の中に、情としての愛が盛りだくさんであるか、それを駆逐して知としての愛が占有すようになっているのか、これは一度は考えておいた方がよいと思った。まだ上手く解明できているわけではないけれども、それからまたずいぶん考えた。さらに考える一つのきっかけは、自分の両親の死だった。
はっきり言えば、言葉に出来ない。世間に流布されるようにも、詩人のようにも、自分としては言葉に出来ないと思った。言えば、いずれにしても嘘になる気がした。言葉に出して言わなければ伝わらないと言うが、そうする必要のないことが、人間の社会にはあるような気がする。計量すべきものでもなく、分析すべきものでもない。言葉が遠慮しなければならない領域が、ある。それは自らにも他者にも、直接的に問うべきではないのだ。今日の作の後では、こんな思いに至っている。
2025年6月15日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「言葉の旅」です。
言葉の選択と転換の仕方で、詩の世界はずいぶん変わる。特に優れた短歌には、そうしたことを感じさせられる。五七五七七の三十一文字の制限の中で、工夫された表現には鋭さも広さや奥行きも、自由自在に込められている。俳句はもっと少ない文字で、同様に表現されている。ある場合は、同じようなことを同じように表現し切れていると思えるが、ただ受け取った時に、質の違いというものを感じる。そしてその質の違いは優劣ではない。詩もまた同じだと言える。体力も集中力も同じで、やっていることもほぼ同じだ。人間として同じだからだが、それでも出来上がったものには何かの違いがある。それでも既製の言葉を使い、入れ替え、並べ替えして作り上げて行くところは共通している。
こうなるとほかの物作りの場合と同じことだ。そしてやはり、いいものを作るにはそれなりに時間も手間暇もかかる。
ぼくの毎日の作は、少し違う。ずぼらでいい加減だ。これをよしとする考えがなければ、こうやって継続することは出来ない。切れ味鈍い包丁で料理を作っているようなもので、できあがりは食欲をそそらない。味もまずい。初めから振る舞いとして作るものではないのでそうなっているが、ただ長いだけの試行の後で、振る舞いに耐えるだけのものが書けたらいいなあという考えだけはある。10年後、かな。
2025年6月14日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「夏物語り」です。
今年の大阪万博には何の関心もなかったのですが、相変わらずこうしたイベントには裏政治が跋扈しているようです。
55年前、住友童話館で客寄せの「ぬいぐるみ」のバイトをしていました。東京のある小さな人形劇団の募集に応募したものです。
自分の中ではいわゆる青春の一光景で、男女合わせて5人の仲間が童話館のほかの大人のスタッフたちの間に混じって、自由に、孤立して、活動していました。
万博にも、童話館のメインの活動にも関心なく、5人は仲間内で「夏物語り」していました。振り返ると、輝き、悩ましき、幼い青春時代、でした。楽しかったです。ですが、一つ残酷なことがありました。
ほぼ同年の5人は、男2人、女3人の構成でした。ペアが出来て女性ひとりがあまってしまいました。ペアになった者たちは、あまったひとりを可哀相に思ったはずです。そうして心のどこかで、そのひとりの人を「思いやって」行動していたと思います。そのように、行動するほかなかったと思います。その時の、「思いやり」の残酷さを、5人はそれぞれの立場で体験したのです。生きていれば、現在も、思い出すことはなくなったにしても、5人にはその時の記憶が刻まれていると思います。それぞれにその時を超え今生きてあるとすれば、その人たちに幸あれと願うだけです。
2025年6月13日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「消えた蛍火」です。
ぼくの側ではと留保をつけなければならないのだが、文学は科学的言説に超えられてしまった。科学的言説の方が面白いと感じる一時期があった。「美」よりも「真」ということでもあったろうか。
西洋の知、科学知は優れたものだが、その後のまたある時期から、コンピューター知に過ぎないと思うようになった。絶えざるデータの蓄積と解析の繰り返しだ。そしてその知と、知が教える真は我々に対して支配的だ。
真は絶対的だが、ぼくは絶対を手にしたいわけではないし、意外に絶対はつまらぬ、そう考えるようになった。結果として知は人間を拘束するように作用する。
真に対して美は、最初から最後まで「まぼろし」であり、「架空」である。勝手に美しいと思い込んだり、言ったりしても良いものである。万人が万人歯牙にさえかけぬものを、ただひとり美しいと言い張っても成立する。
世界中でただひとり、それを美と評価し、例えばそれを観察し続けていると考えると、これはもう何ものにも代えがたい事実ともなる。さらにその発見は、歯牙にさえかけぬ万人の内の、たったひとりでもよいから共有できる人を持ちたいという衝動に駆られて行く。
真と美と両方に、心と頭とを開いておけばいいわけだが、探求となるとそんなに欲張ることは出来ない。ぼくとしてはデータの収集の手間のようなものもなく、ひとりで勝手に探索できる「美」にのめり込む方が、気楽で、またやりやすいと思う。いろいろやって、老後に残るものはそれだという、ただの味気ない実際かも知れないが、いまはまあそんな場所に立っている。
2025年6月12日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「弱者の闘い」です。
現在の日本社会が、自由主義なのか民主主義なのか、はたまた資本主義と呼ぶべきか、そういうことはもう見えなくなって、同時にどうでもよくなった。ただ何とか主義というものはあって、それは幻想上の価値として社会の上辺の動向に影響していると思う。それは、ぼくは言葉にしては言えないが、見ての通りのことが時代の価値観を象徴しているのだろうと思う。
それもまた、自分にとってはずいぶん遠く隔たっているもののように見える。分からなくなってきているし、今がどんな課題を主流として抱えているのかさえも推察できない。状況からは置いて行かれて、自分の老いの現状という狭い範囲を考えることになっている。
ますます狭まり、道は細くなっていくだけだ。先端の時代の課題からは取り残されて、個的なことだけに絞られて行く。こうなるともう、自分の考えを他者に理解してもらおうとしても無理で、無駄だ。これからはよりいっそうそうで、誰も読んでくれる者、読んで共感してくれる者は皆無だと考えた方がよいことになる。さてそこで、その現実を前に、それでもなお書き続けることは出来るのかと言うことが、個の課題として匕首のように喉に突きつけられる。
おそらく意味などない、単に個人的な作業になるが、逆に言えば、こういうことをやりきったという事例も少ないわけだ。仮にやりきったとしても埋もれてそれっきりになってしまうわけだから、永久に日の目は見ない。普通に考えると、馬鹿か異常かになる。前人未踏でも、前人未踏と周知されない。悲しくイカレタ所業なのだ。
2025年6月11日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「小人の救い」です。
自分の人生何がよかったかなと考えると、何もない。そうして何もない中で敢えてそれを拾いに行けば、大きな悪をなさなくて済んだというその一事くらいのものだ。生きていく過程でどうしても触れあわなければならなかった人々に、厭な思いをさせただろうという記憶はたくさんある。おそらくそのことはどんな聖人偉人にとっても不可避のことに違いない。
記憶に残っているのはそういうことばかりで、逆に人を幸せな気分にさせたと言う記憶はほとんどない。善人ではないので、世の中に向かって胸を張ってみせることは出来ない。経歴において誇るべきことは何もない。ただ、生涯を通じて大きな悪はなさなかった、そのことだけには、今はほっと胸をなで下ろすくらいの気持ちでいる。もちろん大悪を、頭から爪先まで否定しているというわけではない。大きな善をなそうと志しながら、結果として大悪をなしてしまうということはあるからだ。そこから言えば、大きな善に向かうという判断はしなかった。そんな器でないことは十分に知っていた。そういうことを知れた境遇であったことは、今となっては幸せなことだったかと思う。世の中を騒がすほどの人は、大悪か大善か、どちらかの人だと思う。そしてどちらにしても、内実として大変だろうなと思う。どちらにしても荒波の中を泳ぐ役目を引き受けているわけで、その意味ではいずれにしてもその労はねぎらうべきものと、個人的には思うところだ。
2025年6月10日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「生き延びる宗教」です。
ある程度作の形を整えると、次に作全体を要約するようなタイトルを探す。時間をかけてうんと考えるという仕方ではないから、いつも少しいい加減だと思いながら妥協してタイトルをつける。今日もそんな感じ。
ぼくの中では、宗教と学校(教育)はよく似たものになっている。それぞれの言葉の上に見えない枕詞があり、その文字は思想とも見えるが、そうでないかも知れない。ただ、宗教と学校(教育)と言うそれぞれの言葉の上位に、同属を表すような何かがあるように思えるのである。同時に、その二つは現在、その上位の所から自ら下降し、ゆえに初心も初期の役目も自ら放棄し、ひたすら組織を守ることだけに専心しているように見えるという点でもよく似通っている。
こういう見方は多くの人からは邪推と思われるだろうが、それはまあそれでよい。そこからすればぼくはいい気になって言っているに過ぎないのだが、そこにはぼくなりの理由がある。どういうことかというと、ぼくの見方にはぼくなりの、宗教や学校(教育)に対しての過剰な期待があり、それの裏返しとしてこういう言葉になっていると言うことだ。やはり古い人間なので、宗教や学校(教育)に対して並々ならぬ思い入れがある。何かもっと尊いもの、崇高なものを、思いを、それらに抱いているのだ。また、そう抱くように育ち、成長した。そこからすると、もうがっかりだよと、実に勝手に思ったりしているのだ。もちろんその思いは、同時に、自分に向かっても発動する。
2025年6月9日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「北極星に代わるもの」です。
一般の生活者大衆と言ったものを想定する時に、標準的な生活水準から最下層の生活水準までと考えたい。そこをおしなべて標準から少し上の所まで底上げしていきたいわけだ。それを可能にしても、水準としては下層は存在するわけで、だからそれは永久革命ないしは永久運動と言うことになる。これは二十世紀には裏の課題として周知のことだったが、二十一世紀には表の課題として浮上してこざるを得ない。喫緊の課題としてはほかに山ほどあるが、遠い先を見据えた課題としてはそのこと以外には無いからだ。
現行社会の中で、致命傷になりかねないさまざまな問題や事件は、量的にも質的にも中層から下層の層の中で起きている。もちろん上の層でもいろいろな問題や事件は起きているのだが、敢えて言えばそれらは社会にとって致命的と言えるほどの重たさではない。好き勝手な、いい気なご乱心と言った程度のものだ。
大雑把にはぼくはそう考えていて、その延長上にこれからも考えを積み重ねていくつもりだ。おしまいなんてどこにもないから、時にだらだらと、ぐだぐだと、相変わらずのペースで行くだけのことだ。
2025年6月8日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「人体と『わたし』考」です。
意識と体というと、パソコンのソフトと本体を重ねて考えますね。パソコン本体がないと、当然ソフトは使えませんね。ぼくは主にワープロソフトとインターネットのためのブラウザとを立ち上げていますが、これも本体を起動しないと使えません。
ここでの例えではパソコン本体が人体で、意識などはソフトと言うことになるでしょうか。
現代人というと、人体と意識とで人間です。わたしはと言うと、だから意識と人体とでわたしと言えることになります。ところが意識は、たいてい意識としての「わたし」をわたしと見なして矛盾を感じないでいるようです。体がないと自分が立ち行かないにもかかわらず、ふだんは意識は意識として自立しているかのように振る舞っています。
時々こういうことが気になって、ずいぶん考えます。ただこれは学術的な、あるいは学問的な考えるということではありません。もっと違う考え方感じ方です。こういうことは、普通の一般人もしばしば感じ考えていることだと思います。そしてそれは、学術的でも学問的でもないし、意味も価値もないんだと言うことになっているかと思います。ぼくはそう思わないです。意味や価値がないにしても、人間にとってはすごく大事なことなんだと思っています。学術的でない考えや感じ方が、実際にはあふれているわけですし、それがまた現実社会の動きそのものにもなるわけです。それを意味がない、無視していい、と言うわけには行かない気がします。
ぼくは反対に考えます。学術的学問的なものは非常に分かりやすいものです。時間をかけ、労力をかけると誰にでも分かる。
たいした考えではないにしても、一般の人の考えていることの方がよく分かりにくいです。時間と労力をかけても分かるという質のものではないのです。
迷宮行きになりそうなのでここで中断しますが、人体と意識、そして意識としては大衆の、なんかよく分からない意識。そこはもう少し普通の一般人としても考えるのはよいことだという気がします。何か考えて業績を上げるとかではないのだけれど、つまりその結果はどうでもいいのだけれど、そこは大事なところで尊重されるべきなんだというように押さえておくのがよいと思います。
2025年6月7日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「肝心なこと」です。
少し前に、NHKで人体シリーズのような放映があり、そのうちのいくつかを見た。最後に「腎臓」についての放送があったが、「腎臓は体中に情報を発信しながら、さまざまな臓器の働きをコントロールしている」ということで、人体という巨大なネットワームの要でもあると紹介されていた。
大変面白く視聴したのだが、これを見て第一に思い出したことは、森における植物間の伝達のやりとりだ。植物は動物のように動かないが、葉からメッセージ物質を放出してコミュニケーションしているという話だった。内臓はぼくたちにとっては内側に蔵された森のようなもので、全体として窺い知れないところが多い。今回、腎臓を介して臓器同士のネットワークがあることを知り、それがまた役割としては非常に大きなもの、寿命を決めるとさえ言われていて、また一つ驚きが増えた。
森の中の植物といい、体内の細胞や臓器といい、本当に複雑なことをなしているんだなあと改めて思った。
こういうことを知ると、歴史に象徴されるような人間の意識的な活動の典型がある一方で、そういうものに録されない人体内のさまざまな活動があるわけで、意識的な面だけを見ていてはいけないのではないかという気がしてくる。
まあ、ちょっとした道の半ばでそんなことを言ってみるに過ぎないのだが、これはこれでとりあえず、ただこれだけのことである。
2025年6月6日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「いっとう美しい心の動き」です。
子どもの頃に、すごい人だなあと憧れた長嶋茂雄さんが数日前に亡くなった。その頃のぼくにとっては、人社会に一段と輝いて見えた太陽のような人だった。陽気なキャラクターの第一人者だったと言えばいいだろうか。中学の部活で野球部に入ったのは、もちろん、長島さんに憧れてのことだった。
1年生の時、守備位置をどこにするかのテストで、内野のいろんな所で試されたが、結局は肩が弱くて3塁手にはなれずがっかりしたことを覚えている。
高校生の時には太宰治という小説家を知り、傾倒した。こちらは長島さんとは真逆で、陰キャの代表みたいな所のある人だったから、今考えるとずいぶん振り幅が大きかったなあと思う。
自分の中でこの2人に共通するところがあるとすれば、理屈なしに好きだという意外に無い、そういう所だったと思う。人間だからいろいろな欠点や短所はあるが、それらを含めて降参する、参った、好きだ。それで自分がどこかに運び去られてしまっても文句は言わない。そういうことを感じさせられた人たちだった。それは現在でも同じ気持ちだと思う。今でも自分の中では幾ばくかの理想であり、ヒーローであると
いった人たちだ。
どちらからもどんどんと遠ざかるような生き方しかしてこなかった。出来なかった。仕方が無い。仕方が無いが、そこを振り返ると、逆にどんどん自分になってきたとは言える。そうして自分の自分らしさというものは、消去法で出来上がってくるもののように思える。
2025年6月5日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「縄文との再会」です。
作の内容とタイトルに隔たりがあるかも知れないが、アマゾン流域の原始生活者、未接触部族の話を聞いた時に、即座に、現代に生き残った縄文人というような想像が働いた。そういう所から書き始めたのだが、上手く書き進められたか、いつものように納得出来ないではいる。
未接触部族の人たちは、文明のどこかの時点で後戻りをして狩猟の暮らしに戻ったという人たちではないだろう。
日本人のぼくの想像できる範囲で言うと、縄文時代人の中の一部の少数部族が他部族との接触を避け、山奥に籠もり続けて現代になってやっと発見された。そういう想像の仕方が出来る。また、そういう想像の仕方しか出来ない。もちろんそういう想像でさえこの狭い島国では無理筋なのだが、敢えて近似に考えるとそういうことになる。
さて、仮にそれに近いことだと想像して、一万年の長きにわたって周囲に孤絶した生活を続けると、頭と心の発達は縄文期のままに停滞して、まったくそのままを維持するのかという疑問が湧く。そして次に、文明に隔絶した場所に生きるという選択は、部族にとって不幸な選択だったかという考えも湧いてくる。さらに発見された限りにおいて、これまで同様にまったく隔離された状態でこれからも進むとは考えにくい。どのように文明と関わって言うことになるのか。
さらに言えば、それらのことは、現在社会における社会とその社会から自らを隔離する選択をした引きこもり者との関係に重なって感じられる。今の社会は、引きこもり者を一方的に社会の不適応者、不適合者と見なし、官民併せて「おいで、おいで」と現行社会に誘うだけに過ぎない。何割かは、そのことが功を奏して、社会に復帰できたと周囲を安堵させているかも知れない。だがそれは、対策としては少しも本質的でも根本的でもなく、対症療法的でしかない。
両者には何か共通するイメージがある。それは多に対しての少、あるいは正に対する負のイメージであり、言うまでもなくほとんどの人は国家や社会の側に立って、小や負に接しようとするのである。ぼくはそう思わない。逆だ。現在に緊急の課題があるとすれば、それは少や負にしか内在しないところの大きくまた豊かな価値を、少や負の存在から掘り起こし発見をし、それに学ぶことである。それをしなければかえって、堅固と信じる社会および多や正の側の危機的状況は、知らず、深まって行くしか無いのである。ぼくは、そう思っている。
2025年6月4日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「届かぬ声・受け流される声」です。
ここでも一つ、どこかの誰かに声を届けたいと、やさしい言葉で書いてみたりしているわけです。他人が立ち止まって聞いてくれそうな、そんな表現の仕方を工夫したりするのです。長い間努めてきて、工夫も努力もして、そういう言葉の力、表現の力がまるでないということが分かってきます。それでもいつかその力をつけて、声が届くようにと続けてきたのです。でもだめなものはだめなのですね。届けるだけの力が自分にはないと言うことです。
ここで絶望したと言いたいわけですし、もう止めたと言いたいわけですが、まるで興味を持ってもらえない、手応えがない、そういうどん底まで墜ちて見るとそうとはなりませんね。どん底というのはどん底という足場がありますし、どん底に墜ちてみないと見えない風景もあります。逆に腹も据わります。どん底なんてめったに見れるものではありません。とりあえず目の前の風景を端から端まで見尽くして、これを表現するのはありだと思えるようになります。需要がなくても供給する側の理由はあります。表現されていないところだから、表現者にはそれが表現することの一つの理由になります。見る方には面白くなくても、書く方は面白く楽しいと言うことになります。そん泡毛で、まだ当分続けて行けそうです。
2025年6月3日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「老いの日課」です。
ある人物を、「息をつくように嘘をつく」と評した言葉がありました。それから言うと、ぼくらは「息をつくように文字を書く」と言うことになりますかね。
呼吸というのは普段考えることもないのですが、もしかすると、意外と個性的なのかも知れませんね。微細に、緻密に見て行くと、個々に違っているのかも知れない。そんなこと想像したこともないですけど。
書くことが毎日繰り返されて、それこそ呼吸みたいな事になってくると、書く当人にとっては大事なことになってくるのでしょうね。中身がどうであれ、当人にとっては生存そのものと分かちがたくなってくる。
よい呼吸、よくない呼吸ってあるのかも知れないですね。たいがいの人は、それってどうでもいいと考えていますね。
書くものにも良いもの、良くないものがあるかと思います。でも、それは結果ですから、どうだっていいやと言えばどうでもいいわけです。だんだんと、そういう境地に入ってきました。
2025年6月2日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「自他を救う一つの方法の試案」です。
タイトルから何から問題だらけですが、どうにもならないのでそのまま掲載します。
さて、昨日から新しいアドレスだけでの展開となりました。前のアドレスもレンタルサーバを借りての展開で、言ってみればおそらくは路地裏のさらに路地裏の所番地で、その家の在りかはほとんど知られることは無かったのではないかと思われます。それ以前はニフティーと言うおおきなマンションの一室に住み、まがりなりにも時折訪れる訪問者はあったのですが、そこを出てからは新規の訪問者は皆無と言ってよいくらいです。正真正銘の「引きこもる作品展示室」になったわけです。そしてまた、それはそれで、我ながらよくやるなと思ったりしています。
移転に伴って、アクセスカウンターが上手く機能しなくなりました。昨日、これまた無料のものを見つけて試してみると、一応数字が出るところまでは行き着きました。しかし、アクセスを繰り返しても表示される数字は変化しません。しばらくは試行錯誤してみますが、だめならばこれは諦めることにします。まあカウントしてもしなくても同じです。飾りとしては意味ありますが、なくしてもどうということはないでしょう。
これも含めて、パソコンとかネットとか、技術的な興味は自分の中で減衰してきていることがはっきりと分かります。ひっくるめて、加齢現象があちらこちらに滲出、浸透してきていると感じます。抗う元気もなくなっています。コロナに2度罹患してから、特に顕著だと自分では思います。また、仕事を辞めてからはほとんど家に閉じこもって動かないですから、そのことも拍車をかけているのかも知れません。一念発起、若返りを考えようかと言うことも無いわけではありませんが、怠惰もまた高齢の身には甘い誘惑となって囁いてきます。まだ呆けてはいないような気がしますので、今しばらくはこのホームページは閉鎖しないで続けていこうと思っています。今後もよろしくお付き合いのほどお願いします。
2025年6月1日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「ぼくにはよく分からない」です。
今日の作はタイトルにしたそのままのことです。いわゆる他との接触を未開原始から拒み続けて、今なおアマゾン流域に暮らしている未接触部族のことが頭に浮かびました。いろいろあります。いろいろ思うところはあるのですが、最終的にはぼくの手には余る、ぼくにはよく分からない。そういうことをそのまま記述しただけです。
今日から新しいレンタルサーバー上での展開になります。これまで提供してくれていた会社が、別会社として新体制に移行する流れに従って、移行したレンタルサーバー側に移動する形になります。なのでほぼ同じそのままの移転で、それは簡単にできたのですが、やってみるとアクセスカウンターが上手く機能しないようです。まあ無ければ無いでいいので、しばらく試して無理なようだったら、もう無くしてしまおうと思っています。
2025年5月31日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「みんなまぼろし」です。
以前からお知らせしているように、今日いっぱいでアドレスを1本化しますので、従来のhttp://kiminori.html.xdomain.jp/は無くなります。
今日からはhttps://st835348.static.jp/に完全移行ということになります。新しいアドレスの方で今後とも継続してご覧頂きますようにお願い申し上げます。
2025年5月30日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「とある定例記者会見」です。
頭が重い。鼻が詰まる。時々咳や痰が出る。けれども寝込むほどではなく、おきて普段通りの生活は出来る。それでも全体に体調がよくないと感じる。
こういう症状は、いま、けっこう流行っているらしいと言うことをある動画で聞いた。病院に行っても特にはっきりとした病名を告げられず、鼻づまりの点鼻薬しかもらえなかったとも言っていた。その人の勝手な解釈では、花粉症などのアレルギー性の問題と、急な気温の高低差などに体がついて行けなくなっているからではないかと話していた。
ぼくも自分の症状については、おおむね、同じようなことを思っている。それで市販の点鼻薬、風邪薬、頭痛薬などを交互に使用して、その場しのぎを続けている。こうなってくると、どうも自分のこれまでの人生の歩みと重なって感じられる。その場しのぎの対症療法を繰り返し、小さな苦楽や浮き沈みを繰り返してきた。そういう言い方で言えば、全治全快の時もなく、重症の時もなかったと言うことか。ただどちらかと言うと、不快な日が多かったかなという気がする。そしてそれは、自分だけのことかなと考えたこともあったが、いや、意外とそうでもないのだなと今は思う。いずれにしても、まあ体調管理に気をつけるという以外の特効薬は見当たらない。それぞれに気をつけて頑張っていきましょうという結論になりそうだ。
2025年5月29日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「人間考古学」です。
昔、吉本隆明さんが解剖学者の三木成夫さんを絶賛する文章を読んで、「胎児の世界」や「ヒトのからだ−生物史的考察」などを読んだ。それまではほぼ小説や詩や批評など、文学書しか読まなかったと言ってよいくらいだったから、異世界のような気がして読むのに苦労した。しかし、三木さんの文体のせいなのだろうか、詳細は把握できないにしても、先へと読み進めさせる魅力に満ちていてどちらも程なく読み終えた。読み終えて、これはすごい世界だと直感し、何度か読み直していくうちに徐々に全体像がはっきりとしてくるような感じだった。そうなるとほかの著作も読んでみたいということになり、調べて分かった限りの市販の本を次々に購入して読むことになった。いわゆる一般に流通する書籍ではないから探すにも苦労したが、そもそもの流通する本としての著述は三木さんの場合は少なくて、知られる限りの本は手にして読んだ。
とにかくびっくりした。
例えば今、NHKなどで生命や人体に関しての特集がくわしく映像化されてそれを見ることが出来るようになっているけれども、その原型はほぼ三木さんの著作に著されていたとぼくは思っている。つまりそこでは、億単位の歳月を行ったり来たりする思考がなされているのである。
生命とそれぞれの生物の成り立ちとには、さまざまな記録と物語とが隠されている。それを掘り起こして知ることも楽しいのは楽しいのだが、楽しむと言うよりも、それはもっと生きていく上での基礎として、知っておかなければならない知識のように思える。我々が、「自分」を意識する時に、たいていは意識上の自分という物を念頭に置いている。もっと言うと身体を除外し、捨象して自分というものを考えている。それは意識の自然だから悪くはないが、それだと自分の半分を指して自分の全体だと言っているようなもので、正確とは言えない。そうして身体については見た目の善し悪しなどに熱心なだけで、一生をその表面上のことだけですましている。自分のもっとも身近なところに、生命の進化の壮大な歴史の記録が、あたかももう一つのDNAのように埋もれていると言ってもよい。
今日の作はそれらがヒントになって出来たものだが、いつものように出来上がったものは貧相なもので、ここで余計なことをいえば言うだけ惨めになるだけだ。だが、今日の出来損ないの作の世界とは別に、もう少し心と体の復興、復権を願って、そのことに思いをいたしてほしいと、無理にここに思うところを入れ込んでみたというわけである。
2025年5月28日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「社会の表層」です。
今日は少し作品と言うよりもデッサン、あるいはもっと単純に線引きの練習という感じでやってみた。練習は練習なので、それ以外ではない。
先週の20日から、表紙ページ下にある「掲示板」内で、nishiyanさんとの往復書簡みたいなやりとりがあります。自然な感じで始まったちょっとしたやりとりですが、今日はこれからぼくが書き込みをします。そちらの方もどうぞご覧になってください。nishiyanさんは毎日詩でもぼくの先輩で、自身のブログですでに10年を超えて今なお継続されている方です。また、遙か(?)50年前に「試行」に詩を寄稿していて、いわばぼくの先輩筋にあたる人です。ぼくとしては少し前を行く人というイメージで、走っているとずっと背中を目にしているという、そんな感じでいます。ぼくよりもアクティブでいろんな事を幅広くなされている方です。これまで何度もご紹介してきましたが、一応ここでもnishiyanさんのブログのアドレスを下記に貼り付けておきます。どうぞそちらの方もご覧ください。なお11月に現在のブログは終了するそうで、近づいた時点で移転先のお知らせがあるそうですからご留意ください。
nishiyanさんのブログ
アドレス https://blog.goo.ne.jp/okdream01
2025年5月27日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「そして、だが、」です。
明確な方向性として、墜ちて行くことを敢えて目指した生き方だったかも知れない。たどり着く場所は、生きる意味がない、生きる甲斐がない、そういう場所だったはずだ。村のいっとう外れの、小高い丘にこじんまりと設えられた墓所のような。
ふと気づくと、ここは目的の場所だ。生きる甲斐がなく意味もないと、若やいで賑やかな喧噪の街々からすればそう見えるような生存の場所だ。
何故墜ちてきたかは明白なのだ。繁栄に浮かれ、狂ったように乱舞する人間世界から一歩外に踏み出すと、そこには広大な非人間世界が広がっている。ふと後ろを振り返り、人間世界を眺めると、その卑小さが目に焼き付く。確かに人間世界はぼうっと大きく膨張し肥大して見えるのだが、そう見えるのは妄想が取り囲んでそう見せているだけで、実態はこじんまりとしてみすぼらしい世界に過ぎない。
それよりも、甲斐もなく意味もない非人間世界の広大で重厚な世界は見るものを圧倒する。ぼくらはそれに立ち会って、そちらの世界を見ているのだ。
生き甲斐だとか、生きる意味を持つとか、こちらの世界はそんなケチな魂胆で生きたり存在したりしていない。ここでは人間の世界が異数の世界であり、妄想に病んだ世界なのだ。ぼくらは人間なので、長くこちらに留まっていることは出来ない。いずれ人間世界に帰って行かなければならない。どのような考えで、どのような心で、帰って行くかはぼくら次第であり、またそれぞれである。
ちょっとした小話の途中ですが、今日はここで中断します。
2025年5月26日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「名前の不思議」です。
嫌いというのではないが、小さい頃から自分の名前に違和感を抱いていた。もう長いことこの名前をぶら下げて生きてきているのだから、すっかり馴染んでいていいはずである。けれども自分を表すときに、わざわざ自分の名前を持ち出すのは稀で、自分とか、ぼくとか、わたしと言っているし、またその方がしっくりする。自分は自分、ぼくはぼく。どうも命名された名前はとってつけたような感じで言うのも聞くのも気恥ずかしい。そのことを考えての今日の作である。
他人を呼ぶときは名前で呼んでいるし、名前とその人物とを、一種融合した物のように違和感なしに了解している。それは理解していても、いざ自分の名前となると、違和感を感じてしまう。あまり深く考えたことがないので考えも深まらないが、深く考えたら奥行きは相当深いところまであるのかも知れない。が、そこまで行く気は今のところはない。
2025年5月25日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「社会を変える力」です。
日本知性の第一人者のひとり、とぼくは思ってますけど、養老孟司さんがどこかで言ってました。冗談半分だと思いますけど、また大っぴらに言うと顰蹙を買うかも知れませんから、当人も周囲も当たり障りのないようにあつかって大事にはなっていません。でも半分は本気で言っていたと思います。
今となっては、養老さんがホントに言ったかどうかはどうでもいいですね。先進の知性が、知性ではどうにもならん、地震が来てガチャガチャに破壊されたら変わるかも知らん、変わるだろう。半分冗談交じりにでも、そう言っているわけです。
どうということもない言葉ですよ。自然に期待するという、それだけです。何気ないですけど、心に残っています。
2025年5月24日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「貧の履歴の中に」です。
風邪の症状が長引いていると考えていたが、今日になって、これは肺炎の初期かも知れないと考えを変えた。
そうだとすれば、よく寝る、水分をたくさんとる、栄養をとる、たばこを吸わない、などして回復を待てばよいことになる。なので、しばらくそんなふうに過ごそうと思っている。
2025年5月23日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「もうどうにもとまらない」です。
ふざけたタイトルです。山本リンダです。年寄りなら誰でも知っていると思います。 まだ具合が悪くて、起きて更新する以外は伏せっています。今も胃が少しムカムカしていますね。まあでもまた横になれば回復に向かうと思います。
お金も元気もなくて、やることに制限がかかります。毎日いい加減に言葉拾いをして、毎日それを面白いように並べているわけです。ただそれを繰り返しているだけの無策に過ぎませんが、ちょっと、何か、先の方がぼんやり明かりのように見えてきましてね。それは何かと言うとですね、ずっと先になるのでしょうが、もう出てくる言葉と書きとめる言葉とが、ピタッピタッと定着するというイメージ。そう言うのが先に見えて、そこまで行こうという考えになってます。要するに才能の開花ですね。もう出てくる言葉書きとめる言葉が、そのまま詩になっているというですね、妄想です。妄想のゾーンがすぐ先に見えます。
日常の生活言葉が主です。簡単で短い言葉がいいです。ただそれを読むと、一気に世の中のことが分かり、何が正しいか、生きる指針にもなり、安心もする。そういう詩が汲めでも尽きぬ泉のように湧いて出てくるようになります。そうなると楽しいんですね。止められない、止まらない、「もうどうにもとまらない」ことになります。もう少しでそうなります。もうすぐです。そうですね、あと50年生きていれば、そういうことが実に簡単にできるようになります。皆さん一緒に長生きしましょう。長生きして、そうなったぼくの詩を確認してください。終わります。これからまた床に伏します。
2025年5月22日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「世界で最小の空き地」です。
今日も体調がよくない。気分もよくない。この作業を終えたら少し横になってみよう。ぐっすりと寝て起きたら、何もかもよくなっているような気がする。
2025年5月21日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「声と言葉と心と問い」です。
少し風邪気味で喉が痛かったりする。3日くらいだろうか。コロナ以降、風邪というとこれだ。そして喉の痛みから、鼻水、咳、それから熱へと移行する。そして一回りして徐々に収束に向かう。パターン化している。もう一つこれに加えると、あまり重症化しない。若いときは酷く寝込んだりしたこともあるのだが、老いてからは風邪の症状としてそこまで発展しない。変な言い方だが、病気の方も衰えているような気がする。風邪自体にそんな力がない。不思議だがそんな感じだ。
冒頭一節には、ガザ地区の難民の声としてニュースの記事になっていたものを使わせてもらった。その声にどう対峙できるかというのがこの作を書く動機だが、なるべく普段着の言葉で書こうとしたものだ。受け止め方も発展のさせ方も取るに足りない所なのものかも知れないが、足場をどこに置くかは意識してやっているつもりだ。そこから価値ある言葉が紡ぎ出せなければ、何度でもやり直すことを繰り返せばよいと思う。まだまだ、まだまだ、だ。
2025年5月20日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「どこか悲しい」です。
2025年5月19日
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「生きた証」です。
農業、漁業などの生産者が知恵をつけて、一斉に儲かる漁業、儲かる農業を目指したらどういうことになるのだろうか。またそれが世界的な規模で一斉に行われるようになったらどうなのか。そんなことを一人でこっそり妄想していると、恐ろしさを感じる。
現在の物価の高騰のことを考えると、まだ無意識の統制ですんでいるが、これが意図的意識的に行われるようになったら、最終的には食料品を牛耳るものが世界の覇者となるような妄想にまで発展する。要するに、意図的、意識的な生産統制がなされ、自在に生産量をコントロール下に置くことが出来たら、これは無敵だ。この兆候は原油の生産国に現れているし、今般の米の価格の高止まりの現象の中にもかすかに感じ取ることが出来る。
まさかそんなことがあるわけがないとか、人間はそんなことはしないとか、性善説で世界を見ることは出来ない。人間個々も、社会も、至る所で底が抜け始めている。
経済的下層に生活する住人としては、自己防衛手段として、自給自足的な規模の耕作地がほしいなと思う。そこでわずかでも米や野菜を収穫できれば、少しでも生きていくための足しになるかも知れないからだ。
一方で天気がよくて、お花畑が賑わい、日本各地でいろいろな祭りが開かれて、そこでは楽しさを実感し、浮かれたり感動したりといった生活が並行して行われていることも事実だ。ピンからキリまで言えば、重層し複合した世界が繰り広げられ、一緒くたに現在になだれ込んでいる。
こういう混乱、混迷の時は、生活も思想も沈んでいくのがよい気がする。素朴でシンプルな初期に立ち返ることが必要だと思われる。同時に世界や社会への関心を持ち続けることだ。とりあえずぼくらはまだ言葉を紡げている。
2025年5月18日
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「晩年のその先」です。
朝起きて掃除洗濯をしていたら、雲が晴れて日も差し、あっという間の猛暑。自分の部屋に入るとエアコンがほしくなる。湿度が高そうで、疲れや眠気も感じる。そう言えば庭の花たちもきれいに咲いているが、まだそれほど目立たないが、至る所草の芽が吹き出している。今年の夏も思いやられる。きっとそうなるに違いない。
今日の作にも関連するが、ここ数十年、ネガティブ志向が嫌われる。太宰治は「右大臣実朝」で、アカルサトハホロビノスガタデハナイカと言ってみせた。若い頃は我が意を得たりとその言葉にはまった。そのせいか、時代的にはまだ暗さを気取る人もたくさんいたのである。昨今は一転、絶滅危惧種に近い状態である。裏を返せば、本当に内面に暗さを抱えた人だけが暗い立ち振る舞いをしているということになる。
さっきふと思ったのだが、似た言葉でポジティブとネガティブがある。現在の社会では極端にポジティブ志向がもてはやされているように思える。太宰のようにそれは滅びの姿だという勇気はないが、社会全体が一本方向の道に向かっているようでちょっと怖い。どうして、雰囲気としてネガティブ志向を否定しようと社会が働きかけているのか、理由みたいなものがよく分からない。ポジティブがあったらネガティブもある。それが健全な社会であり、世界である気がするのだがどうだろうか。安藤昌益なら二つで一つと即座に答えるだろうが、実社会の現象はたいていどちらかに偏る。現在は、明るい、ポジティブが極端に好まれ、広がりをみせている気がする。共同幻想の強化とも感じられる。ぼくはたぶん、劣勢の方の肩を持ちたいと考えているのだ。たいていそれは必ず負ける。いやそれって究極のネガティブ志向でしょう。
2025年5月17日
お知らせがあります。
このたび、このホームページが借りているサーバー元が事業を終了することになり、移転しなければならないことになりました。すでに移転先は決まっていて、下にそのアドレスを書いておきます。こちらは5月末までとし、6月1日からは下記のアドレスでご利用くださいますようお願いします。実際にはもうすでに移転先でも同じものが見られるようになっていますし、こちらも6月末までは続けて見られます。準備が出来たので、時期を繰り上げて6月1日からということにしました。今後ともよろしくお願いします。
https://st835348.static.jp/ (コピーしてブラウザに貼り付けても可)
2025年5月17日
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「書物の整理」です。
活字が読み難くなったこともあり、整理しようという気になった。それをそのまま題材にして、浮かんだ思いや言葉をそのまま記してみた。何の芸もないことである。
ただ、昨日、「底が抜ける」ということを書き、考えたりしたせいか、蔵書を始末すると言うことも、どこか自分の底が抜けることに通じるというような思いになった。
それらの本に記された言葉や考え方というものは、少なからず自分の精神形成に関与してきたものであるはずである。読んでなにがしかを吸収した時点で、終わっているという考え方も出来るが、おそらくはまだ吸収し切れていないという負い目があるのであろう。手放しがたいという思いを長く抱いてきた。それはしかし、一笑に付されるべき感傷以上でも以外でもない。自分の頭でそういう稚拙な物語を編んでいるだけなのだ。
整理を決めたら、臨時のゴミとして環境センターに持ち込むか、別途販路を調べてどこかに、誰かに買い取ってもらうかだ。寄贈するという手もあるが、喜んで引き取ってくれるというところを知らない。一番は必要とする人の手元に送ることだが、可能性としてはゼロに近い。最悪を考えるとほしがる人は誰もいないということになる。現実的にはそれが妥当な考え方だ。だから、売ろうとしても買う人がいないと言うことも十分にあり得る。そう考えつつ、しかし、やってみようという気になっている。もはや背に腹は代えられないという場に立っているという現実もある。
とりあえずこれから主なものを整理し、一覧表を作ってみようと思う。話はそこからであるが、生来の怠け者であるからやりきれるかどうか分からない。できるだけ楽しみながらやれるように努力していきたい。
2025年5月16日
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「底抜け筒抜け」です。
社会全体に悪い意味での底抜け感が感じられて、まともに書いても仕方がないから、大いにふざけて書くことにしました。最後の方でアトムが出てきたのは、谷川俊太郎さんが亡くなったことがふと思い浮かんだので強引に入れ込みました。楽しんで書けたのですが、楽しんで書こうとする代償なのか、全体のできはもう一つという気がします。
2025年5月15日
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「団地の庭の花水木」です。
ぼくの記憶や印象では、宮城の仙北では「花水木」はあまりポピュラーな庭木、花木ではないと思っていた。だから棲んでいる団地内でも、その名を気にとめて探してみるということもなかった。だが、今年も最近になって、妻が、あちこちで「花水木」
が見られるんだってと言う。ちょっと気にかけて通りがけに家々の庭を見ると、これが結構の頻度で目に入ったのだった。
えぇっ、去年までは考えもしなかった「花水木」の木が、団地内ではこんなにも見られるようになっていたとは。時期的に丁度花盛りで、あちこちでピンクや白の花を可憐に咲かせている。実は花と見えるのは変形した葉のようで、ネットで調べるとそんなことが書いてある。車中から見る分には小さなピンク系の花をたくさんつけているように見えるが、それは苞と呼ばれる特殊化した葉らしい。全体的には小さな桜のようにも見える。桜よりもちょっと可憐で繊細に見える。視力が衰えているので自信を持って伝えられないが、まあこんなところ。動画であったら「いいね」をチェックしているところだ。
2025年5月14日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「聞く耳持たぬ人たち」です。
兵庫県知事の斉藤元彦やN国党の立花孝志のことが核心のところでずっと分からなくて、頭をひねっているところで、心的な体験として同じようなことが昔あったなあと思いだした。こちら側の思いや言葉が通じない、あるいは通用しない、そういう子どもに対したときの心的な体験がそれだ。そういう意味合いでどこか似ている。
そこから始めてみたのだが、すんなり書けそうだったのに、一度書き終えそうになって、また後半部を書き直したりした。そこから少し迷走して、それが最後まで尾を引いている。
2025年5月13日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「〈引きこもり〉考」です。
昔から孤独、孤立、また劣等感などにたくさん悩んできました。ぼく個人のことで言えば、それでも何とか社会の端っこにしがみついて国民の一人だ、一般の社会人だ、みたいな顔つきを作ってやってきました。けれどもやはり、今も孤独であるとか引きこもっているとか言う人のことを考えると、居ても立ってもいられない気持ちになります。自分はそういうところから半分抜け出して、刻苦勉励と言えるかどうか分かりませんが、まがりなりにも普通人としてやってきました。それでよかったのかどうか今でもよく分かりません。本当の孤独者、引きこもり者に比べたら、どこかずるいところがあって、本物の孤独者や引きこもり者では無かったのではないかという疑義があります。また、しかし、逆に、本物だったんだけれども、孤独や引きこもりから抜け出ることは自分の経験から言って、不可能ではないんだよと考えるところもあるのです。そうして、もしも、自分の宿命や運命のようなものから本当に脱却して、一変する道を歩きたいならば、ぼくの考え方生き方が、少しは参考になるかも知れないな、そんなことを思ったりもしているのです。
ぼくもいろいろ揺れ動きはしてきたのですが、逆に、孤独や引きこもりを引き受け、徹底してそんな生き方を選択したってよかったんじゃないか、と言う考えを今では考えたりすることもあります。そこのところでは、少しも、孤独や引きこもりを可哀相とは思っていません。可哀相とか痛ましいとかという見方は、他の人たちはどうであろうと、ぼくはまったく思っていません。派手で賑やかに生きようが、地味に静かに生きようが、いずれも人間の選択や強いられる生の可能性と思っています。どちらが良いとか悪いとかでもないと考えます。ですからぼくみたいに身を捩るようにして半分逃げ出すやつもいるでしょうし、無抵抗にまっしぐらに行く人も居るのだと思います。それはもうそれぞれで、そこまで行くと、細胞の中のミトコンドリアの性質がちょっと違うのだくらいの、ぼくらにはわけが分からないくらいのことになって行くのかも知れないと思います。ただいずれにしても、可能性としての人間の生き方や在り方の範疇に留まるまでのもので、そこには同じ意味や価値があるんだとぼくは考えているわけです。もちろんこうした考えとはまったく無縁に、社会通念上の生き方についての常識的な考え方も厳然としてあるわけで、それを否定しようと思ってはいないのです。そして結果としては、最後はやっぱり当事者次第なんだと、無視無関心の立場とそれほど変わらないということになってしまいます。
無責任な想像でしかないのですが、ふと「引きこもり村」みたいな村を作って、それぞれに引きこもりながらの、そして孤独な共同生活が出来ないかと夢想したりします。原始古代の生活から初めて、文明、文化をやり直すというようなことをです。ちょっと脳天気に飛躍しすぎましたね。
2025年5月12日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「せいぜいお気張りやす」です。
学もないし普通一般の生活者に過ぎないが、この国の指導者たちはたいしたことが出来ていないということくらいは分かる。過疎や少子化をはじめ、この国の先行きの不安が一向に払拭されそうにないのが、社会全体からうかがわれるからだ。
ここ数年、あるいはもっと長く数十年。この国にはある一定の指導層、指導者層が存在した。彼らは頭がよくて、その頭のよさを遺憾なく発揮できる位置にいたはずである。にもかかわらず、あまりよい結果は出していない。結果は出していないが、依然としてそういう地位にいて、そういう指導的役割を担っている。そして繰り返して言うが、担っているが結果は出していない。
これからあとどれくらいの期間、同じことを続けるのだろうか。おそらく今のままでは、これまでと同様にきつい詰問にさらされなければ、ずっと続けていくことだろう。ぼくらが出来ることは茶化したり、皮肉を込めて罵倒するくらいのことだけだ。だからやる。恥ずかしさのあまり、いたたまれなくなるまで、やる。そういう気分の今日の作だ。
2025年5月11日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「縄文人のDNA」です。
日本人のルーツを探ると、大きく縄文人と弥生人となるようです。弥生人というのはもともとは大陸から来た渡来人で、この地に定着し、先住の縄文人とも子どもを作りながら全土に広がっていったようです。大陸からの渡来人ですから文明的に上位にあって、島国の中にあって確実に勢力を広め、拡大したと思われます。
それらの勢力が西日本において、いわゆる一応の統一的な国なるものを作りました。しかし、初期にはまだ、特に東北地方は勢力圏の外にあったようです。
その頃の東北はいくつかの小国はあったかも知れませんが、まだ西日本に対抗するような国として統一されたものではなかったようです。小国や村落がバラバラに点在し、それらは互いに他を制圧しようとはせず、言ってみれば尊重し合っていたのかも知れません。
西日本の統一を果たした勢力は、その後に東日本に向かっても勢力を広めようとしていきます。これが渡来人、弥生人のDNAではないかと思います。渡来人をルーツとする弥生人と縄文人と何が違うかと言えば、異部族との争いの経験値だと思います。大陸では争いが多く、そこで敗れて日本に逃れてきた渡来人もあったと聞きます。ですから弥生人、弥生系の集団は縄文系の集団に比べてすべての点で積極的で能動的だという気がします。ある意味でそれはひとつの美点だという気がします。集団として発展的だとも考えられます。
じゃあ縄文系は弥生系に比べて劣っているのかというと、それはそうではないような気がぼくはします。生きることに対する違った価値観がある気がします。そこには対立と言うほどのことではないにしろ、異なる性質があるように思われます。
ぼく自身は実際のDNAは別にして、自分を縄文系と見なしているところがあります。あるいは縄文系の方が好き、縄文系の良さというものをもっと表に取り出して知らしめたい。そんな気持ちを持っています。
今日の作を振り返ると、こうした思いがあってのことかなと、今は考えるところではあります。
2025年5月10日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「でくのぼう」です。
今日の作では高揚感がないことを言ってますけどね、ホントね、年を重ねると高揚感なんてだんだんなくなるよね。高揚感のない生命って,すなわち死である、そう言いたいくらいでね。
毎日、生きてるんだか死んでるんだか分からないモヤモヤの境界の中を、さ迷っているというか、当てもなく歩いているというか、そんな感じ。
坂を下っていくわけですからね。その先に大展望が待つわけでもない。
今朝は雨が降っています。
カーテンを開いた窓の先には、一面どんよりした雨雲が広がっています。これって人生なんですかね。老いた先の季節はずっと晴天続きかと思っていました。晴れませんねぇ、雨ですねぇ。そうか、老後は季節で表せば梅雨か。鬱陶しい。
2025年5月9日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは
「不思議」です。
家の中にいても顔や手だけは露出していて、それらの皮膚が時折このごろの季節の温もりを感じ取るようだ。寒くも暑くもなく、丁度というのでもなく、うっすらと、そして何となく温かいという信号を送ってくる。これは、季節が季節なだけに、衣服の調整と微妙に関係があるかも知れない。
日によって直感的に今日は薄着にしようとか、逆に昨日寒く感じたから少し厚いものを着ようとか変えている。調整が上手くいっているときはたぶん暑さや寒さについて気にならないことになっているはずである。上手くいっていないときはどちらかになる。
冬を越して春。となると、気持ち的に温かいとなる。温かいと思うから少し薄着になる。たぶんそのせいで、ぼくも4月の初めに風邪を引いた。
そうやって毎年失敗する。何度も何度も繰り返したこの年になっても失敗する。こういうことにも学習しないという言葉は使えるだろうか。もちろんそういう情けなさも感じるけれども、もう一つ、これは年を重ねてきた分、「春」の言葉から励起される「温かい」が、素早く強くそして長くこころに起こるからではないか。「春」に対して膠着した「温かい」が、逆に感覚を鈍化させたりしないだろうか。
だからといってどうだと言うことでもないのだが、最近は感覚にも思考にも不信が増していて、ひいては自己不信の度も増してきている。これはちょっと辛いところもあるのだが、致し方がないというところでもある。
〈お知らせ〉
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