2025年8月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「意識、この厄介なもの」です。

 今日も午前中は炎天下のようです。洗濯を終えました。汗が噴き出ます。急いで自分の部屋に戻り、エアコンをかけながらアイスを頬張ります。それでも背中から汗が噴き出ます。
 こうして実生活上の1日1日は、大過なく過ぎていきますね。なんとなしの不安は常に心の底に待機していますが、不安が的中すると言うことにもなかなかお目にかかりません。その時は不意に来るものですよね。例えば親戚に不幸が起きた、とかね。分からないですよね。ドラマの恐怖場面に流れる音楽が、常に低く流れているようなね。何もない日常にも、そういう意識のセンサーが背景で動いているような気がします。防衛のメカニズムなんでしょうか。まあそれが、無用な働きであれば、それでいいわけです。備える。準備しておく。時に厄介ですが、そういう仕組みですからしょうがありません。あんまり酷い時は、そうですね、いまのぼくだとパチンコに行けば、その時間だけは解放されます。何しろ夢中になってしまいますから。一点集中です。考えている時よりも、文字を記述している時よりも、すごく集中できます。ですから、奥さんの目が柔和な時は、ちょこちょこ言ってもよいかという駆け引きをします。たいていの場合はやんわり釘を刺されて終わります。仕方がないので部屋に戻って文字を書き込むとか考えるとか。ぼくがやってることはそんなものです。背骨をまっすぐに立てて正座して、なんてことじゃありませんから、全然。右から左にさっと読み流してもらうだけで、過分です。それにしても暑いです。エアコンの効きが悪いです。


2025年8月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「討論譚」です。

 明日、明後日と雨や曇りの予報です。今日も、いつパラパラと雨が落ちても丘少ない空模様です。農家さんにとっては慈雨と言うことになるのか、焼け石に水ということか分かりませんが、いずれにしても悪くはないというところでしょう。
 今年、我が家のちっぽけな庭にも異常がありました。庭の草花から雑草から、結構目につく程度に立ち枯れが見られました。7月中に、視野に枯れ色が点在するなんてなかったことです。ぼくなんかもエアコンの部屋とない場所とを行ったり来たりするだけで、ひどく疲労感があったりしました。身体の表面はどこと言って変わりなく、支障もないのですが、内奥が壊れていくような、ちょっと大げさですがそんな感覚を味わいました。呼吸するだけでもしんどいと言う感覚です。
 これから一週間の予報は30度か、それを下回る予報なので、宮城ではいつもの夏に戻る感じでしょうか。
 年を取って、そこそこの健康であっても、環境の変化はボディーブローのように効く気がします。人体を含め、生命体の全般はものすごく精密に出来上がっている分、ちょっとした気候の変化なんかにも弱いんですね。そういう意味では生命体はどうしてこんなにヤワに出来ているのだろうかと思います。
 そう考えると人間の精神なんかもヤワだよね。ちょっとしたことで傷つくとかね。ナイーブとか言って、人間はよい風に解釈したり自画自賛したりするけど、どうかなあ、脆弱という気もします。
 とまあなんだかんだ言いながら、皆さん、乗り切っていきましょう。そういうことが言いたいわけです。頑張って死ぬまで生きましょう。


2025年8月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「時間の使い方」です。

 稲が枯れかけている。そういうニュースがありました。昨年から今年の前半にかけてのよく分からない米騒動の後ですから、ちょっと深刻です。下層国民としては、一刻も早く豊作が予想される外国産米の買い付けに政府主導で走るべきだと思うのですがどうでしょう。むかし、大量に外米がお店に並んだ時があり、細いタイ米など食した記憶があります。そこそこ食べれる気がしました。
 今店頭に並んで安ければ、ぼくは喜んでそれを買いますね。
 今は妹の嫁ぎ先が田んぼを持っていて、そこでの余剰分を分けてもらって市場より遙かに安く手に入れられますが、秋の新米がどうなるか心配になります。そういうツテのない人たちはさらに心配でしょう。
 大きく気候が変動する周期に入っているように思いますから、農業の大規模化も結構リスクが大きくなる気がします。ぼくの理想は逆に、そういう方向に税金を投入していくのではなく、国民全てが半分自給自足できるくらいの耕作地を持てるように考えて欲しいです。過疎地、耕作放棄地が増えているのですから、国土の有効利用からも、あるいは野生の生き物被害を食い止める観点からも、そういう方に舵を切ることは悪くないんじゃないかなと思います。とにかく、下層国民の生活が安定する方向に、政治は取り組むべきですよ。そう思います。


2025年8月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「壊れるものは壊れた方がよい」です。

 すごいですね。兵庫県知事問題。まだくすぶり続けていますね。支持派と反対派が死闘を繰り返しながらまだ決着がつかない。交互に攻勢と劣勢とに立ちつつ、どちらも諦めない。こうなるともう孫悟空とベジータの戦いのようです。あるいは仁義なき戦いの現代版と言ったところでしょうか。野次馬には見応えのある戦いです。
 もちろんぼく自身は斉藤が駄目の一択で始まっています。またこれにコミットする全体が駄目というのが基本の考えです。倫理も正義も法律もみんな駄目と言うことです。何一つこれに加担しようという気にはならないし、加担したいと思える立場も、意見も見いだせません。
 その上で、この問題をどう見たらいいのだろうかと考えた時の、唯一、こういうのがいいんじゃないかと思える見方というのは、ごくふつうの生活者のごくふつうの感覚で見た通りに見ると言うことです。
 いろいろひねくり回して、結局そこに落ち着きます。
 結論から言うと、あんな騒動を引き起こした関係者も、その後に参加していった連中もみんな駄目だと判断して、そこから立ち退いて、本当の自分の生活上の切実な問題に自分の力を注ぐのがいちばんいい。中途半端に、正義や倫理や、あるいは観念や幻想にコミットしない方がいいです。人が死んだり、犠牲者が出たりするという問題は、問題となっているそのものが下劣だからです。馬鹿な者たちが集まって馬鹿なことをしでかしているから、そんな馬鹿なことが起きる。そう考えた方がいいです。思想的にも政治的にも見るべき見所は何一つありません。アジア的政治的権力闘争の地方版、縮小版。それが現代の高度文明下ではこんな様相を呈するようになる。それだけのことです。
 ぼくらの経験上から言えば、こうした問題の解決は、うやむやに終わらせるか数人の逮捕者を出して収束に向かうという二択です。鮮やかな解決と言うことは先ず無いでしょう。それは問題自体がつまらなかったことを意味すると思います。犠牲者を出しているにもかかわらず、そういうことになると思います。ちょっとぼくが力不足なので全てを言い切って終わりにすることが出来ませんけど、今日はこんなところでお開きにします。もちろんスパッと言い切れるように、ぼちぼちと勉強はしていくつもりです。


2025年8月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「暗黙の岐路」です。

 数日前、少し離れた市のダムの貯水率が0になったとい言う報道があった。一ヶ月前には80パーセントを超していたと言うから急激な減少だ。梅雨期に雨が降らず、猛暑が続いたせいだ。にしても、その間の注意喚起や警告はさっぱり報道されなかった。参院選があったこともあるだろうが、報道大丈夫かと今は強く思うところがある。簡単に言うと、負のスパイラルが、報道を担当するマスメディアに起きている気がする。
 いま思い巡らすと、あの頃が既存メディア、報道の絶頂期かなと思い出される時期はある。日本経済の動向とパラレルな関係にあった気がする。
 大手新聞をはじめとしたマスメディアの凋落は著しい。西洋近代の凋落の象徴とも言えそうに思える。
 今のところこれらの崩落を食い止める手立てはどこにもない。元祖西洋はヨーロッパ連合を形成して乗り切ろうとしてきた。鳴かず飛ばずの結果で、アメリカ共々世界的範の座からは滑り落ちている。先進国はみんなそうだ。

 崩壊は同時に生成の兆しでもある。だから悲観するにはおよばない。けれどもまだ生成の兆しがぼくら一般生活者に見えていないことも事実だ。それはどこかに起きていると考えなければやっていられない。アンテナを張り、感度をクリアに高めて。そうした兆しに備えておくことだけはしておきたいなと思う。


2025年7月31日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「時代は手厳しい」です。

 視力が衰えるのは自然だと思っていて、それなら衰えた世界を堪能してやれと言うことで、もう眼科にも行かず、眼鏡による矯正も行わず、古い眼鏡をかけたり外したりしながら生活している。とりあえずそれで生活に著しい支障はない。ただ全体がピントが合わずにぼんやりしている感じだが、これについては、最初からこんな世界だと思い込むことで対処しようとしている。昔のくっきりと見えた世界は、実は夢である。そう自己暗示をかける。自分の現在を素直に受け入れる。そうするとこうなる。
 本や活字は、眼鏡をつけても外しても見えない。左右の視力差が大きいので、矯正しても限界があるそうなので、ずいぶん前から諦めることにした。もう本は読めないし、読まない。

 だったら本は売り飛ばしてやろう。そう考えてこのごろフリーマーケットで出品し始めた。他の出品額を調べながら適当に値をつけ、数件が購入された。
 これによって、需要の有る無しがはっきりした。このことの明瞭化が先ず収穫だった。大学を出て、最初の勤め先で店頭販売も経験したから、大事なことは購入者に不快な思いをさせないことだと言うことも理解している。もう一つ、こちらは商売人ではないから、手数料、梱包費、配送料を支払った上で、少しでも益が出ればよしとする。極力スケベ心は出さない。値下げの要望があれば、上記を念頭に置き、できるだけ要望に応じる。そう言うようにして進めている。
 本は全体があまり引き手の力を感じない。時々思いついて壊れた昔のパソコンなどを出品してみると、これらへの食いつきがすごい。勢いがある。たぶん購入者は海外への転売を考える人たちのようで、その辺の需要はすごいと思える。

 吉本さんの一般的な市販の書籍が多いので、そう言う中でこれは無いかというお尋ねがあれば対応したいと考えている。ページ内の「回覧板」でもメールでも、ご一報いただければありがたい。


2025年7月30日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「お手本のない社会」です。

 西洋近代という当時の世界思想を模範とし、輸入し、真似て、GDP世界第二位に上り詰めるなど、一定の成果を上げた。
 考えてみると、そこが日本型西洋近代の絶頂期で、以後はまっとうに衰退に向かっている。以後、もう一度夢を見ようとした日本の歴代の首相の顔ぶれを思い浮かべると、みな苦い顔つきをして見える。明らかに失敗が続いてきたのだ。
 こういうところから出てくる結論は、言わずと知れる。ずっと間違っている、その一事だ。
 こういうことは専門家でなくても簡単に言える。
 対応なり対策なりが正しく行われていたら、それは成果となって出てくるはずで、それが出てこないと言うことは間違っていたと言うこと。単純な帰結である。

 ぼくらはここに一つの兆候を見ようとしている。つまり、一つの国家社会の死、あるいは国家社会の敗北の兆候を、である。そう考えるべき状況はあちこちに散見できて、それ以外に考えようがないところまで来ていると思う。
 国家社会を代表する者たちは、ちょっとの失敗が繰り返されているだけに過ぎないと思い込んでいる節がある。上手くすれば現行体制で十分に乗り切っていけると。敗北も死も念頭にない。
 けれども何もかもが衰退、劣化の無限ループに入り込んでいることは、目に見えて分かってきているはずなのだ。それに知らぬ顔、気づかぬ顔つきをしている。未来に対して無責任である。

 かつて同じような光景があった。アジア地域に発生した古代の世界思想、特に仏教の教えを、時の統一大和朝廷が範として取り入れた。日本的に展開されて、全体に波及し、根付きもした。だがそれも信長、秀吉の代で、実質滅んだような気がする。家康の代に至っては空虚な伽藍、装飾的なものへと転化した。そこから中身のない、葬式仏教への延命は一気呵成だ。
 仏教思想が時代的に煮詰まって行き、信長や秀吉という新たな武力権力者たちの台頭によって、さらに弱体化の道を辿ったことは現代によく似ている。
 最近の選挙に顕著に見られたように、民主主義、自由主義、個人主義などを公然と排斥する、強い力を標榜する政治家たちが出現し始めているのだ。多くは安倍晋三の小型版に過ぎないが、一般聴衆がそれらに期待していることも確からしく思われる。西洋近代の考え方の終焉の兆しだし、死の兆しである。

 家康の政治は鎖国しか思いつかないが、実際は何だったのだろう。実際は古代のアジア思想と西洋近代思想との狭間で、何を考えたのだろうか。統一国家成立以後、他国に発生した世界思想を最も受けなかったようにも見えるが、だが実際は取って代わって儒教の影響が大きかった。こうなるともう、この国は自前で思想を創ったこともないし、自前の思想で政権を運営したり、政治を行ったこともないことになってしまう。
 なら西洋近代思想が死にかけようとしている現在、これから何を頼りに国家社会は動こうとするのか。そしてこの時に、代わりになるものが見いだせていないことが大きな問題であるように思えるのだ。


2025年7月29日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「晩年を行く」です。

 社会は経済活動を中心に営まれている。人間で言えば身体的です。社会は身体的活動です。
 政治は社会の上に乗っかった活動で、人間で言うと頭脳的です。これを象徴するのが政府です。政府は狭義の国家です。
 身体的と頭脳的とではずいぶんと違いがあります。肉体労働と頭脳労働とが同じ労働でもずいぶん違うように、身体的と頭脳的とでは相容れないところがあります。国家(政府)と社会もそうです。普遍的なのは社会であり身体です。優先されるべきです。最近は逆になっています。頭脳活動や政治活動がより重要事とみなされています。考えが逆立ちしています。なので国家も社会もおかしくなってきています。もう国家や社会の「死」、そこに向かって突っ走っているとしか思えません。
 今回の参院選を見て、そういう危機意識を抱いた政治家を見ることは出来ませんでした。いても、部分部分の危機意識しか持っていないように見えました。また、その危機意識も浅く、従来の小手先の改革案でどうにかなると考えている、薄い政治屋が多いと見えました。頭脳部分はみんな駄目です。徹底的に駄目です。残るのは社会的な身体です。頭脳を失った社会が、本能的な喜怒哀楽のもとに動いていきます。人々はそれで動いていく。それは悪くはない。統制がとれない状態ですが、悪くはない。そういう時間がしばらくあるでしょう。
 首を刎ねられた鶏みたいに、みんな好き勝手動き回っている。そんな状況がしばらく続くのではないでしょうか。全てがそうだから、そんな仲間に加わってもいいのです。ですが、不毛です。もしも、これを避けようと考えるならば、ぼくらは自らにおもりをつけて、ずっと深海に沈んでいるというのも一つの手です。そうやって浮力に拮抗しないと、たちまちのうちに浮き上がる泡の一つになってしまい、海上で砕け散ることでしょう。もちろんそれでもいいのです。どっちに転んでも同じですが、ただどちらを選択するかと言うことだけです。同等に苦しく、平等に悲しく、です。そしてそれらはまた全て均しく電気信号の発火で、美しい光を放つものでもありましょう。それを快とし、喜びとする。ぼくらの考え方はそういう所に帰着します。


2025年7月28日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「原日本人論」です。

 昨日の報告から。パチンコ負けました。
 ギャンブルの血は、狩猟の血です。そう勝手に思っています。
 山、里、海。太古の島国は森山を海に囲まれ、人間が住み着く前に多くの動植物が棲息していたのでしょう。少しずつこの島に人が渡ってきて住むようになり、けれどもそれほどの人口でもなく、余裕で狩猟採集が続いたかと思います。徐々に大陸から、東アジアから、また南東の島々から移り住むようになりましたが、食料となる動植物の繁殖力はすさまじく、次から次と生まれては育つ、そんな島の環境だったかと思われます。
 魚を釣りに海に行く。海の中はよく見えませんから、釣れるか釣れないかは釣り人にとっては時の運です。過去の成功体験を思い起こし、こうしたら釣れる、そう思って行くわけです。獣を狩る時も同様でしょう。あそこに行くと必ずアレがいて、絶対に仕留めることが出来る。そう思って出かけます。
 パチンコも、あそこのあの台に座ったら、必ず大当たりして、連チャンして、小遣いが倍になる。そう思って出かけました。惨敗です。
 部屋で動画を見ていた方がよかった。小遣いは煙草を買う金に回せばよかった。奥さんの小言が、実際に聞かなくても聞こえてくる。奥さんは怖い。かつての母親のように、怖い。怒られたらこの世界では生きていけないような気がする。本当はそんなはずはないのだが、この世界は女性のものだという気がしてならない。狩猟時代人たちが、獲物なしに集落に、またそれぞれの家に戻る時に、どんな思いで戻ったか。何となく分かる気がするが、はたしてどうだろうか。


2025年7月27日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「夏を乗り切る呪文」です。

 いやあ毎日暑いです。こんな時はかき氷と呪文だ。というわけで、「夏を乗り切る呪文」を書きました。参考にして夏を乗り切ってください。
 巫山戯ていると思うかも知れませんが、その通りで、巫山戯ています。巫山戯ないではやっていけません。もうこうなったら一日中涼しいパチンコ店に行くしかありません。頭を投げ捨てて行ってきます。


2025年7月26日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「孤独死考」です。

 毎日書いていると、何を書くかと考えている暇がありません。物理的な時間としての暇はあるのですが、それだと書き出す前に何かを決定しておく必要がある訳で、その決定に時間を取られて、挙げ句の果てには決定できずに書き出せなくなると言うことが起きます。それを避けるためには、決定せずに書くということになります。分からないうちに、とにかく見切り発車をするということになります。ぼくの場合はそうなります。書き出しながら同時に整えていくことをします。上手く行く時もあれば行かない時もあります。

 今日の作のキーワードは「孤独死」と言うことになりますが、これまでにも数回、このことを頭に思い浮かべて書いた記憶があります。その時は多分、「悲惨」というイメージに引きづられながら書いたという気がします。今回はそういう自分の反応と世間的な反応とを共時に思い浮かべながら、みんな嫌がっているな、目を背けているな、そういう所も思い浮かべながら書き始めました。
 最終的には思いがけない方に言ってしまいました。自分の感覚としてはそういうことになりました。ちょっと意外でしたが、思っていたところよりも深いところに触手が向かったと思っています。要するに作としてみれば上手くもよくもないのですが、自分の観念の向きとしては新たな展開が見えたということになります。
 こうして、自分が面白がっているだけで、自分以外の人には何の利もないものです。こういうことがせっせとやれるのは、世の中の発展からの恩恵です。

 ところで少し話題がそれますが、これを書きながら、つまり個々人の孤独死と言うことに思いをしながら、なぜか、国家の死、社会の死、学校や教育の死というようなところにも思いが波及していきました。そういう目で「現在」は見られる必要があるのじゃないかなと言うことです。そういう所は少し遠ざかっていたところで、孤独死の反対側として、そういう所も見える気がしました。個人的な密かな課題として、そんなことが浮上したと言うことです。
 つまり吉本隆明さん風に考えると、近代国家としての日本は今死にかけていて、ここ数年の間に分岐があるんじゃないか、そうした進行の兆候を見分けなければいけないのじゃないか、そういうことを思う訳です。そして今回の参院選の在り方にもその兆候はあったのじゃないか、そう思ったりします。そうして、自分の中にもある種の違和感があった訳で、そこはある意味での考えどころかなと思ったりもしています。つまり政治の死の兆候はあった訳です。
 問題は、そういう声がまったく届いてこないと言うことです。話題が全て本質から逸れているし、本質的なことを言う人がいないと言うことです。これが日本国、日本社会の死でなくて何だろうかと言うことです。
 あるいはぼくの視野が狭いと言うだけかもしれないです。本当は語っている人がいるのに、その声を聞くアンテナがぼくにないだけなのかも知れないです。ぼくらはやっぱり大事な人、大事な指針を失ったのです。現在進行中の全ての分野、領域での死の実際について、ぼくらは手探りで見て行かなければならないのだなあと、思わずため息が漏れそうに思います。


2025年7月25日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「才に習う」です。

 閉じられた世界のように生活は苦しい。けれどもよくよく考えてみると、そういう中にあっても快や楽に向かっての言動を選択したり、立ち居振る舞いをしようとしている自分に気づく。もちろんそれはほとんどの庶民が行っていることでもあるように思う。つまりまあ黙っているが、目立たぬながらもいつ何時も前に向かって進もうとはしているし、進んでもいる。戦火の中でも避難生活の中でも、人たちはたとえ一瞬であっても快や楽を感知することは忘れないし、諦めない。つまり、そもそも生命というものは、そういうように成り立っているし、出来ている。
 庶民の中にそういう力を垣間見ることは嬉しいし、頼もしい。
 食の力、性の力。それらは生き物たちの根源と言ってよい特性であり、生理でもある。これが正常であるうちはまだ大丈夫だ。とは言え、これらが少しずつ「異常」に侵食されてきていることも事実だ。大きく根源的な唯一の不安材料でもある。
 時間はまだある。余力もある。今を、そして一瞬一瞬を見て行くことが大事だ。そこには些細だが、快も楽も、また幸さえもが石ころのように転がっている。ゆっくりと手に取って少し磨いてみればいいのだ。きっと輝いて見えることもある。


2025年7月24日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ぼくらが後を追っている」です。

 先に現実社会が病んでいる。病んだ社会に投げ込まれたら、そりゃあぼくらも病んで行く。それで社会は対策だなんだと大騒ぎするが、不自然な対策を講じてますます社会は深みにはまって行く。だとしたら病んで行くのはしょうがないじゃないか。少なくとも半分は病んで行く人間の責任じゃないよ。そういうように出来ているとすれば運命だ。必然だ。どうする、人間。

 猛暑、酷暑が続いている。頭もヒートして行く。こんな時現代人のぼくらはどうする。エアコンをかける。冷たい飲み物を飲む。アイスを食べる。やれることはそんなところだ。なら、そうするさ。そうやって時間を稼いで、いい考えが浮かべばよいし、浮かなければそれなりに進む。意外に選択肢は多くない。慌てふためき、ジタバタしたって、それで何とかなるというものでもない。体力の温存、知力の温存。ひたすらに時間を稼いで待つ。好機が訪れるかどうか、そりゃあすべからくやってみないと分からない。


2025年7月23日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「超国家考」です。

 超国家というのは国家を超える共同体の形態、と言うくらいの意味合いです。社会はすでに国家を越える傾向にあるか、あるいは部分的には越えていると思います。そこで調整役がどうなるかという問題です。国連は機能不全ですが、そこまでは来ているという段階ですね。
 こんなことを考えるのは、現在では意味ないことですね。冗談半分。漫才や落語のようにしか語れないし、聞けない話です。

 今日も朝から天気がよく、気温も急上昇。エアコンもがんがんです。真偽は分かりませんが、便利を追求した結果こうなったと考えると、文明の有益性と有害性を考えてしまいます。善と悪とで一つと言われるように、何事も一方だけということはないようですね。自分たちで創り出してきたことですから、我慢我慢というところでしょうか。 頭も酷暑になりそうです。神経回路がショートを引き起こして、アドレナリンが出まくりそう。なんかで冷やしたいところです。


2025年7月22日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不連続の連続」です。

 同じ現実を目の前にしていても、世代によって見えている光景はおそらく全くの別物だ。例えばぼくは二十歳前後のころの幻影を引き摺っている。
 若者や子どもの世代は、ある物象を見る時に、見えたそのままを了解する。だが年老いたぼくらが見ると、ある記憶を喚起させながら見てしまうということがよくある。

 例えば夏。子どもはこの酷暑を夏の印象として記憶するだろう。この酷暑を当たり前だと思うだろう。
 小学校の先生をしていた時、7月後半と言えば、夏休みの始まりである。記憶では、夏休みの始まりは意外に暑くない。宮城の仙台近郊はそうだった。それでそんなに暑くもないのに夏休みなんて、もったいない気がしていた。かえって夏休みの終わりころの残暑がきつくて、ずらして夏休みを実施すればいいのにと考えたりしていた。 ぼくらからすると、最近の夏の暑さは異常だ。ぼくらが体験してきた夏の暑さとはまったく違っている。地域にもよるが、7月後半はこの辺では、よくて27、28度くらいの気温が普通だったと記憶している。だから今年ののように、もう33度どか34度なんて、あり得ない気温の数値なのだ。

 世代の違いについて気温を例に挙げてみたが、一事が万事で、世代間断絶は大きくなっていると思う。これは時間軸の断絶だが、空間的にも同様の断絶が見られて、それは個人間の断絶と言うことが出来るだろう。同時代でも個人的経験、体験に、大きな隔絶が生じているからだ。時間的な断絶、空間的な断絶が同時に起きている。ちょっと大変だよなと思わずにはいられない。


2025年7月21日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「それが普通」です。

 社会的に需要がない、必要とされない。これは生存が無価値と宣告されているような、辛い境遇だと考えてしまうこともあるだろうが、逆に言うと今流行の「ステルス」航行を可能にするもので、「ステルス」自由を手にしたと同じ。
 需要が大きく取り沙汰される世の中だが、要するにそれは経済的範疇。人間は経済的な存在であると同時に、何ものにも縛られない形而上学的な存在でもある。大きく両面があるから、両面とも見ないと。両端を持った座標軸で分布を見ると、たいていどちらかに比重を置いて、必ずしも真ん中が標準ということでもないだろう。社会と個人が両端。真ん中に家族。需要がないのは個人の端っこで孤立に近い。まあぼくは家族をもったせいで、個人で孤立というところまで振り切ることは不可能となっている。
 社会に不必要。これを受け身で捉えると辛い。しかし全きの孤立は、逆に社会は不必要、そう言える立場に立っているということを教える。
 よく「一人では生きていけない」なんてことを口にする人がいるが、それやってみたことはあるのかな。実証したことはあるんか、そう聞いてみたい。たいてい途中何かのきっかけで、「駄目だこりゃ」と考えて、要するに日和って戻った人の言葉だと思う。徹底して一人で生きてみた人なんて、そんなに多くない。たいてい戻る。不徹底な人にあまり悟ったようなことは言って欲しくない。
 社会最優先と、個人最優先とは昔からあり、昔から対立しているな。社会派が多数を占めるから、個人派は少し不利かな。
 社会による無意識のいじめに近いけど、必要とされない、需要のない個人には頑張って自己を樹立して欲しいな。ぼくも渋々頑張っているし、そういう人たちが一定数いる限り、倒れられないな、なんて勝手に思っていたりする。


2025年7月20日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「歩くとはそういうものだ」です。

 社会に通用しない。社会に受け入れられない。例えば引きこもりの増加という現象を考えた時に、社会というものが個々人に対してそうした壁のように立ち塞がっているのではないかということが想像される。
 これも想像で言えば、引きこもりの隘路は幼稚園や小学生の時期が始まりのように思える。これは現在社会が考えて導き出した社会性や、社会人を育成するための導入の時期に当たっている。つまり本来無意識的な成長過程であるものを、意識的に組み替えた、そのはじまりの時期に当たっている。英知の粋を集め、意識的に計画されたスムーズな社会参画の構想が、全ての子どもたちをスムーズに社会に送り出すべく考慮され実践されていくはずであった。
 ほんの一部かも知れないが、これがどうも上手く機能していない場合があり、それだけではなく、教育の無い時代にはなかった深い痛手のようなものを子どもたちに齎しているようなのである。

 一定の子どもたちに対して、社会は戦力外を通告する機関として機能している。これは意図したものではないが、そのように作用しているらしい。
 自分が需要がない、必要とされていない。もっと言えば不要であると、社会の側から通告されているような被害者意識が起きる。これに対して誤解だというのは通用しない。

 ぼくはあからさまな引きこもり者にはならなかったが、もしかするとだが、自分の内側だけのことで言えば、もっと辛い道を歩んできたかも知れない。それは分からないが、マウントを取ろうとする意識はさらさら無くて、ただやっぱり、一人の道を一人で歩いてきたのだ。これはぼくの場合は自衛にも通じるが、先ず一人と言うことを自分の常態であると覚悟するところから始めなければならなかった。これには相当の時間を要した。何なら、現在でもその途次だと言えるかも知れない。そして自分にはこういう道しかなかった。ぼくがいま言えるのはここまでだ。後はそれぞれがそれぞれに自衛的に自分の進む道を進むしかない。そういう殺伐とした思いしか、今は浮かばない。


2025年7月19日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「需要」です。

 解剖学者の養老孟司さんは、大ベストセラーになった「バカの壁」に関連して、社会や社会に生きる人たちが何を求めているか、つまり需要がどこにあるか、わりとそこに対する勘が利くんですよと言うことを言っていた。要するに、人々の求めるものに応えることが出来た、それが「バカの壁」だったということだ。
 東大の学生の時には、これからは塾というものが需要があると考え、講師なのか共同経営という形だったのか、とにかくそちらの方にタッチしたことも言っていた。
 ぼくはそれを知って少し違和感を持った。この違和感についてあまり上手く言うことが出来ない。ただその一端を婉曲に言おうとすると、今日のような作になる。難しいところだ。
 一つ言えそうなことは、「需要」をキーとして、若い人たちの間ではこれにめざとい人たちがたくさん居そうだと言うことだ。さらにそこから進んでのプレゼンが大変上手だと言うこと。そういうことが言えそうに思う。そこに時代の流れ、現在というものを一つ、見ることが出来る気がする。

 売れる表現と売れない表現。読者を獲得できる表現と獲得できない表現。これらは確実にあるような気がする。どちらが良いか悪いかではない。需要があるかないかで分かれるように思われる。そこに優劣はないんだと思う。需要を考慮するか無視するかで、自ずから表現が変わる。そのことはどういうことなのか、まだよく分からないが、ぼく自身はそういうことにはあまり関係なく、好き勝手やってきているなと感じている。実際にはジレンマも生じるが、需要の起きないところをずっとやってきていて、多分これからも変わりようがないだろうなと考えている。


2025年7月18日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「分かるかな」です。

 参院選挙中番にさしかかり、熱を帯びてきた感じ。テレビ、YouTubeなどのメディアを見ると確実にそうだという気がする。それらを見ていると、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の登場人物である「カンダタ」を思い起こす。しかもぼくの印象では、ひとりの「カンダタ」ではなく、ほぼ「カンダタ」だらけで蜘蛛の糸に縋り付き、上へ登ろうとしている図が浮かぶ。
 翻って自分の住む団地周辺に目や耳を向けると、意外にしんと静まりかえっている。もちろん選挙カーに集まる群衆という光景もない。大変結構だというほかない。


2025年7月17日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ある邂逅」です。

 南太平洋の人々というと、明るい、おおらか、そんなイメージがある。対して日本は
人見知りとか暗めとか、几帳面とか生真面目とか、堅苦しい感じがある。
 かつて作家の島尾敏雄は環太平洋に浮かぶ島々を捉えてヤポネシアと呼び、太古より盛んに交流があったと考えたがっているようだった。真偽はぼくには分からないが、何となく言おうとすることは分かる気がした。
 それが中国を主とした大陸の文化文明のさまざまな影響により、次第に明るさやおおらかさを見失ったという仮説に進んだように思う。
 これは自分の印象としてそう思うと言うだけで、本当に島尾がそう考えていたかどうかとはまったく別なので、あまり信用してもらいたくないところだ。
 いずれにしても、以後はずっと、ほんのりそんなイメージをなくさずにいて、現在の日本人の心の奥底にもその血はうっすら混じっている気がしている。それが、今日の作にもあるように、時々何かをきっかけにして、ある懐かしさとして蘇る時がある。ある種のルーズさ、おおらかさ、ある程度まで行くと成り行き任せに考えるとか、そういう自分の本性に出会うことがある。で、われわれは、奧に持ったそれをもっともっと表に出して行っていいのじゃないかと考えたりする。自分について考えると、特にそう思ったりする。考えると、子どもの頃の田舎の人たちは、たいていみんなおおらかだった。明るかった。
 こんな風に褒め称える言い方をすると、しかし、そんないいことばかりじゃ無いぜと言う言葉が浮上してくる。子供心に、何となくという形で、村八分的な感じも体験した気がするからだ。いずれどんな地域にも長所短所はあるもので、あわせて一つなんだと、そう考えておくのが無難だという気もする。


2025年7月16日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「一週間」です。

 選挙があると知の大半がかり出される。報道でも動画でも、いよいよ選挙戦が過熱してきていると伝えられている。毎回投票は50パーセントを前後するから、この国の動向はずっと半分で決定されてきたことになる。加熱するのも半分だ。啓蒙しても、啓蒙しても、動かぬ国民は常に半分がいることになる。ぼくには動かぬ半分が希望に見える。そして加熱する半分が、ぼくには絶望に見える。
 社会の知を着込んだ大半の者たちは、逆のことを言うだろう。大半が言うから、それが正しいのだろうと、これまた大半の者は思うだろう。それに同感し、加担するだろう。でも真実は数でもなければ、空気を読んで従うところに見いだせるものでもない。
 上から吸い上げられてしまうのか、自らが上を目指すのかいろいろだろうが、それはおしなべて重心が上がってしまうことであり、地に足がついていない状態になることを意味する。それは人間として優れることでもなければ,高度化することでもない。共同性の磁力に吸い込まれるだけのことだ。それは人間性の意味から言えば、無意識的な意識の自然な志向性であり、そのことの無自覚によって行われることでしかない。端折って短絡的な言い方をすれば、無自覚な知の陥るところである。
 現実はそれで罷り通るから、それがよくないとはさらさら言うつもりはない。ただそれらは無自覚なサブカルチャー知であり、エンターテイメント知でしかないことは知っておいた方がよい。つまりそれほど高級な知ではない。それなのに高級な顔つきでいるのは滑稽であり、ピエロにしかならないからだ。

 世の中が意味ありげなことを騒ぎ立てている時は、あまりよい傾向とは言えない。気にかけて慌てふためくことは必要ない。すべからくそれらの言説には中身がない。事情に通じているからと、中身があるように見えても中身がない。気にせずマイペースで、生活に重心を置いて、日々の暮らしに淡々と向き合うのが一番よいことだ。それだけが言ってみたいことだ。磁力に吸い寄せられる無自覚な知の狂奔、饗宴。やがて祭りの後の寂しさに戻る。


2025年7月15日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「自立の庶民論」です。

 即興の勢いのままに公開です。少し、ヤバいなと思っています。綴った言葉に関して無責任な気がしています。なので、常套句で、遊びです、巫山戯ています、と言いたいと思います。年取ると、こんな風にいい加減に済ますと言うこともします。書いてる方はわりと気持ちよさげです。だんだん言うこと、書くことがエグくなってきました。日常では「ポツンと星人」ですから、こういうのが唯一の慰みということになります。唯一の憂さ晴らし、と言う風でもあります。まだまだ続けます。


2025年7月14日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「アメーバの脅え」です。

 宇宙規模の無限遠点から見て、アメーバの生存体験と人間の生存体験に差異があるかどうかということが気になる時があります。どうでもいいことと言えばどうでもいいことですが、とりあえずそう考えると、違わないという気がします。差異があるとしてもたいしたことじゃない、差異というほどじゃないという気がします。
 上手く伝わらないだろうとは思っているのですが、想像で言うと、アメーバの生存体験を極限大に拡大解釈すると、人間の生存体験のようになるんじゃないかと考える訳です。
 進化発達の時間を逆回しにすると、アメーバのような、アメーバでなくてもいいのですが、要するに生命の原初に戻る。それをまた逆に現在に戻って辿ってくると、現在の生き物群になります。動物群には立派な目鼻があります。アメーバには目や鼻は見えませんが、そこを出所とすれば、すでにそこに目や鼻に分化していく元が存在しているはずです。

 ほとんど遊びですが、そういうことを時折真剣に考えたりしています。それでついつい今日のような作になると、ただそれだけのことです。


2025年7月13日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不思議」です。

 生命は非生命から誕生して非生命へと還っていく。こういうことは少しずつ解明されてきている。こうしたことは人間的な営みの前進と見なされる。これからも解明は進んでいくと思われるが、解明し尽くされるかどうかは分からない。何となくで言えば、膨大な時間の積み重ねによって可能になりそうな気もするのだが、前提がくつがえると積み重ねた全てが瓦解することもあり得るので、楽観的にそうなるはずだとは言えない。
 解明する。解明が進む。これは人間的な性質の自然な発露で、止めることは出来ないに違いない。だがそれが人間自身にとってよいことかどうか分からない。もちろん自分たちのことだから、よいと思って行ってきている。自分たちの性質を否定する訳にはいかないということもある。それで進む。それで人間社会は繁栄してきた。
 こういう一連の流れで考えると、最終的には全ての人間が誰ひとり不幸を味わうことなく、幸福に、豊かに、生きて死んでいくという社会に行き着くはずである。
 これもまた本当にそうなるかどうかは分からない。だが、そういうことを目指していることは確かな気がする。

 こうした進化、解明を進めるという行いは、いろいろな領域また分野で行われている。全体をイメージすると、一本の大きな樹木の枝葉を広げた姿が思い起こされる。もちろん枝葉の先端が専門領域での知的営為、解明的営為に当たる。
 しかし、人の暮らしとか社会的営みとかは樹木の先端の枝葉にだけある訳ではない。太い幹や地中に張った根にもあるはずである。樹木全体を人間や人間の社会のように見なせば、花をもつけて見映えのする枝葉の偏重はどうかと思うし、実際に偏重されてはいないかという疑いも生じる。そういう実際に対して、本当は幹や根こそが大事なんだよと言う考えもありうる。
 浅学なぼくらは軽々に言ってはいけないのだが、なるべく偏らないようでありたいなとは思っている。そうして言えるのはそれくらいのことしかない。


2025年7月12日

 先ほど更新した際に思わぬ失敗を発見しました。タイトルが「〈独り言を歌にして口ずさむ〉」とした昨日の作は、昨年の同月同日に公開していた作で、誤って昨日重ねて公開してしまいました。実際には「鎮魂の歌」のタイトルの作で、今差し替えたところです。内容はその前の日に話題にした「遠野なぎこさん」が念頭にあって、そのことを引き摺って作したものです。
 時折現在社会の冷酷無比さを思い知らされることがあるのですが、この方の消息不明の報道を受けて、さらにまた冷酷無比さを思い、対象化しようとする試みで作しました。目を通していただけたら幸いです。


2025年7月12日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「冬のことだけ考える」です。

 人間はほかの生き物と同じく、遺伝子レベルの進化や発達も当然ありました。そのなかでも特筆すべきは脳の発達で、これにより人間と人間社会とは他にはない速さで飛躍的な成長、発達を遂げてきたと思います。外界や環境を了解し、適応していくやり方がものすごく発達して、特に利便性を獲得できてきたという気がします。
 いずれにしても、自分たちに都合よく、快適な暮らしに進んできたことは間違いないと思います。
 文字によって歴史が刻まれるようになってからも、その勢いはさらに加速したように思われます。便利になり、快適になり、言うことがないくらい人間にとっての理想に近く進んできたことは間違いないことのようです。

 ぼくはしかし、書くという行為において、人間や人間社会に対して礼賛することは先ずやってこなかったと思います。逆に人間や人間社会に対して、過剰なほどにケチをつけ続けてきたと思います。このことはよく自覚できていました。これは対人的なところで考えれば、指摘される方はイヤな感じを持つはずです。社会に向かっての批判や批評についても、これが繰り返されると、社会の側を代理する立場に立った時に、ウザいなと感じられるに違いありません。このこともまたよく分かります。
 これらのことは、本当はよくよく考えてきました。共感や賛同を得るよりも遙かに多く、疎ましいと思われ、顔を背けられることも知っています。
 けれどもやっぱり、少数派でしかないとしても、おかしいことはおかしいとか、変だと思うことは変だとか言わないではおれない、そんなふうに思って過ごしてきました。 例えば世の中にいじめがあるとして、いじめられている者がごく一部で、ほとんどの人が直接的には無関係な存在だとしても、これは人間や人間社会にとって大きな問題だと考える訳です。多くの人は仲良くやっている訳だから、大げさにするなと言う考えもあるでしょうが、ぼくはそう思わないのです。いじめられるひとりの人になって考えると、それはものすごく切実な訳です。一人という実感が切実なことだというその上に、さらにいじめが乗っかる訳ですからとても苦しい訳です。このことを見過ごしてほっといたら、ぼくは全体にとってよくないことだと思えてなりません。
 多少のことはほっといてもいいのです。世の中にはそういうこともたくさんあります。友達や恋人がくっついたり離れたりとか、そう言うのはたくさんあって、それなりに傷ついたり苦しんだりとかします。でもたいていどうにかなって行きます。ほっといても大丈夫というというところがあります。そういうのとは次元が違うよということがあり、それについてはほっといては駄目だという気がします。
 だいぶ主観が入りますから大きな声では言いにくいのですが、またそれはぼくの気質や性格のせいなのかどうか分かりませんが、変だよ、おかしいよ、ということはよく気がついてしまいます。気がつくと考えずにはいられないし、言わないではいられなくなります。
 こうなるともう、存在自体がウザくなる訳です。ぼくという存在自体がウザくなります。季節に例えれば、冬になるんだと思います。季節の中での一番の嫌われ者です。(ホントかどうかは別にして)ま、そうこうして、ここまで来たら最後までこうであり続けるほか無いし、こうであり続けようと考えているというところでもあります。もちろん時々はよき進展についても言及していきたいなとも考えてはいます。


2025年7月11日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「鎮魂の歌」です。

 安藤昌益の思想は、同時代性から何も受け取っていない、もしくはそこから出発しているのではない、そう言うように考えられる。それに対して、例えば吉本隆明さんの思想の始まりを考えると、ヨーロッパ近代のマルクスやヘーゲルなどの哲学、また経済学などに大きな影響を受けたと思える。それが吉本さんの戦後の始まりで、そこから自己の思想を確立していった。
 そう考えると、時代性に色濃く影響されて出発した思想だと言うことが言えると思う。もちろん普遍性に向かって獲得を試みた思考だが、出発点は戦後の時代性に限定される。
 安藤昌益についてはそういう所が見いだせなかった。同時代性は全て否定の対象でしかなかった。どこに依拠するかという時に、少し前のヨーロッパ近代に依拠した吉本さんとは異なり、遙かな前古代の中国発の世界普遍思想へ遡って考察を始めた。
 安藤の場合、「文字によって文字を糺す」みたいに、文字に対しての不信感が大きかった。自分が文字を書き記すのは、文字表現世界のみならず、文字そのものの改変や解体を目指すものだとも言っている。文字の前提となる言葉に対しては、それほどの毛嫌いを示してはいない。
 もちろん安藤にしても吉本さんにしても、それ以前に、そもそもの出発が具象的な目の前の社会及び社会生活を通して喚起された感受、そこに端を発したことは共通するだろう。それを起点として、どこに陣を構えて社会批判を展開するか。これが人によってさまざまなことは現実の通りだ。ただ、現代に生きるわたしたちには、同時代や少し前の近代に遡って陣形を整えようとするのが普通一般的に思える。
 安藤の生きた江戸中期にも、たくさんの著名な学者や思想家は存在していた。普通であればそれらの内の誰かに傾倒したり師事したりするのが一般的だ。あるいは裏返しで、強く反発すると言うこともありがちなことだ。安藤はそうではなく、一挙に前古代まで飛躍して遡った。
 こういうやり方がまた、日本では他に類のない、唯一の思想家だった。そしてこう言う思考や思念の飛び方は、どこか新興宗教者などの飛び方に近いような、似ているような、そういう気がする。
 ついでに言うと、思想や思念の領域においてではなくて、身体骨格の面で現在の人間から生命の起源にまで遡って進化の逆行を辿って見せたのは、私には解剖学者の三木成夫さんだった。そこでは人間の意識の発生にも触れられていて、その意味では位相は異なるものの、安藤よりもさらに遡った人間考察の在り方の一端が示唆されている。
 白紙を前に思いついたことを即興に記したまでで、特段のことがあるのでも何でも無い。中途の中途だが、ここはこれで終わる。


2025年7月10日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間の世界だけは」です。

 人間は全ての人々の幸せのためにとか、全ての生き物が生存をまっとうできるようにとか考えて、そのことのために尽くすことが出来る存在である。仮にそうでないケースがしばしば現象することがあるとしても、過去、現在、未来と進む中で、全てのことがよりよい方向に進んで行くはずである。
 どこかでそう期待してきたし、また、そうとでも考えなければ、この人間の現実社会に生きる甲斐がないようにも考えてきた。
 だが、それはもしかすると大きな勘違いかも知れないという一抹の不安は、ずっと根底に残り続けてもいる。何が問題かというと、自己存在ということに尽きる。
 存在が喚起するエゴ。これは我々の中に意識に先立って存在する。我々の訓練された意識がどう立ち向かっても、これには適わない。

 これを考えるきっかけは、女優の「遠野なぎこ」さんの生死不明の報道を聞いてだ。彼女については精神的に起伏の大きい、お騒がせ女優のひとりくらいのイメージで捉えていた。特に興味がある訳でもないので、時々のトーク番組とかで、ずけずけと物言う人、鋭い指摘もする人、そんな感じで受け取っていた。それだけに万人受けするというのでもなく、嫌ったり、敬遠する人もいるように見えた。そういう所をまた、テレビ業界は面白がって番組に呼んだりしていたかと思う。
 精神的に病む影もチラホラし、少しずつ番組から遠ざかると共に、生活上の不如意の話題も耳に届いたこともある。もちろん本人のせいもあるだろうが、仕事や生活の困難を訴え、助けてほしいとか、支援がほしいとか、そんなニュアンスの言葉を本人のものとして何かの動画の中で聞いたような気もする。そうして今回のニュース、自宅から身元不明死体。
 以前にもある都市のマンションかアパートでの、老姉妹の餓死が報道されたことがあった。またそのほかにもいろいろな孤独死の報道があったとも記憶している。
 これも以前、安倍晋三が首相の時に、「頑張った人が報われる社会に」と言っていた。だが結果的に見ればこの言葉は、「頑張った」と見なされなければ無視され、冷酷に扱われる社会、と同義になった。

 文明大国の社会のする冷酷無比な無視、いじめ。それは真剣に取り上げられもせずに、時間稼ぎによって流されて終わる。誰も何も考えない。考えてもすぐに諦め、次の話題に進む。
 ○○時間テレビが象徴するような、助け合い社会空間の創造、あるいは実写化。さもそれが実現化しつつあるかのように思わせる演出と構成。参加する視聴者もその気になったりもするが、実際はしかし憑依と変わらない。実質上の存在エゴは解体されずにあり続けて、ある方向においては冷酷な無視を平然と行う。
 文明大国における、助け合いとか、支援し合い共生するなどの考え方は建前上はあるとして、存在エゴから来る本音は、気に入らないものが助けを求めても冷酷無比に無視するのである。それでもって、自分にはまったく落ち度がないと強力に言い張る。
 社会の側からする冷酷無比な無視といういじめは、個々人の存在が喚起するエゴを集積した社会そのもののエゴとして表れる。悪く言えば、社会にとっての善人、仲間内しか、助けを求めても助けない。そういうことだと思う。それで何が悪いか。そう口にする人もいるだろう。だが、高度文明社会なんだろう。文明大国なんだろう。悪人は切り捨て、善人だけを助けるというのは野蛮すぎないか。そもそも心や精神に傷持つ人は悪人でもない。また善人は放っていても誰かの助けは入るものだ。そうでない、助けが望めない人こそ助けが必要なので、それなくして何の文明ぞと思う。

 疲れたので止めます。


2025年7月9日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「自立の苦しみ」です。

 どうしてそう考えるようになったか覚えていないが、子どもの頃のある時に、くすぐられることに敏感に反応しすぎるので、これを変えようとした。自分でくすぐったり、妹に手伝ってもらって克服に努めた。かいつまんで言えば、その時に習得したコツは、
くすぐったい感覚に被せるようにくすぐったいと意識化することである。「くすぐったくない」ではなく、「くすぐったい、くすぐったい」と認めることだった。「くすぐったい」とは何かと探求することだった。くすぐられるとくすぐったいので、これが「くすぐったい」と言うことだが、どうしてこんな感覚になるのか、などなど理屈っぽく考えた。
 くすぐったいから、「くすぐったいね、くすぐったいね」と「くすぐったさ」を味わうようにすると、あるいは味わうように意識すると、くすぐったいのはくすぐったいが反射的な反応の方は鈍くなる。つまり無反応のような体裁を装えることが分かった。
 小学校の高学年の頃には赤面症や人前に立つことの恐怖心も強く、そのくせ学芸会などの劇の主人公役は得意だった。

 何を言おうとしているかというと、素の感覚を削ぐことが自分のこれまでの生涯だったなあと、振り返ってそう思うことを言いたかった。それなしにはやってこれなかった。人知れず己の中に繰り返した葛藤の一コマだ。そういう意味では感覚的な場面で他人に出会うことは出来ない。性格というか宿命というか、逃れられないものだなあと、根負けしそうになってきたという気もする。ただ、最後は全部投げ捨てれば済むと、それで終わると、そこははっきりしているので、悲観すべきことは何もない。


2025年7月8日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「もっと引きこもる」です。

 自分のことだけで言えば、集団から個人へ縮退する傾向がもともとあった。けれどもそれは最終の着地点として目指しているのではなく、集団の一員としてよりよく存在できるようになるため、もしくは、よい集団形成のための準備段階として必須のことのように考えられていた。
 身は集団に置きながら、意識は閉ざされた内部世界を彷徨することに明け暮れた。そう表現した方が的確かも知れない。そうすると常時分裂状態ということになり、これは存在の仕方として不自然だったという気がする。
 こういう在り方だと、それこそ「師もなく弟子もなく」と言うほどのことでもないが、全て精神的な入出については自分でまかなうしかないというような、ちょっと過酷な状況を進むことになる。意識とか心とかの交流がままならなくなり、いつもぽつんと中空に浮かんでいるしか仕方がなくなる。自分の中ではこれは、他人が嫌い、集団が嫌いと言うことではないと考えられている。逆に他人や集団と上手く交わりたいと願っており、そしてそのために自分はどのようであったらよいのか、あるいは変わったらよいのか、それを模索するための仮の在り方がそういうことだったと思う。
 意識せずに自然に他人と交流でき、集団の輪に溶け込むことの出来る人は少なからずいる。ただ、自分の場合はそうじゃなかった。そういう順序や過程を通ることが必要だった。それだけなのだが、これが高齢の今でも進行形で続いている。
 今でも、ここを潜り抜けられたら、みんなと仲良く手を繋ぐことが出来る、そういうことを夢想している。このような「ぽつんと」人口は、少なからずいるような気がする。「ぽつんと」だから気づきにくい。自分がなぜ表現や発信を無駄に続けているかといえば、ここにも「ぽつんと」人間が存在していますよと、ある種の連帯意識からのことだと思う。仮想、架空かも知れないが、それくらいのことでしかもうぼくらには関係の糸は残ってはいないのだ。


2025年7月7日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「見えない選挙に一言」です。

 毎日暑いです。うんざりします。と言うことで、座って文字を記すにも巫山戯ないではやってられません。個人的な祭りです。
 参院選です。どうでもいいです。庶民は、つまり非知や無知の衆愚は、お金が欲しいのです。生活が苦しいのです。
 政治活動家、政治運動家を始め、報道などもよく選挙に参加すべきだと言います。選挙は大事だと言います。何十年とそんなことが言い続けられ、啓蒙され続けてまったく変わりません。挙げ句の果てには民衆は愚かだ無知だと罵るものもでてきています。逆でしょうとぼくは思います。そもそも民衆が衆愚というのは前提で、にわか仕込みの知をひけらかして陣営に取り込むという発想が愚かです。何十年も同じことを繰り返して何一つ代えられない、変わらない、自分たちの愚をこそ自分たちで改めるべきなのに出来ない愚。
 候補者が選挙カーの上でわめき立てます。その言葉、その知は、その場の聴衆には届くかも知れないが、深い非知や無知の場の民衆には刺さらない。

 本物の民衆は、深海に棲み、本体、実体はまだよく見られてもいなければ解析されてもいません。海面上でキャッキャと騒ぎ立てるイワシやアジは、潜って深海に行き着くことも出来ないでしょう。海面や浅瀬が海の全てだと誤解しているんです。
 海面は変化が大きいのです。そういう意味では「流行」です。深海は変化がしにくい場所です。「不易」です。ここまでの記述で言えば、文化人、知識人は「流行」で、民衆は「不易」と言うことになります。
 「流行」と「不易」は個々人にも備わることで、誰にもあり、そして現象的には多種多様です。「流行」に傾く人と、「不易」に傾く人と、と言う具合に存在していると思います。「不易」は民衆の深場にあるのです。どちらも人間の本質の両極と言えますが、言葉は「不易」との相性が悪い。そのことは言えそうだという気がします。


2025年7月6日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『法律』漬け」です。

 法律に依存する社会くらいの意味合いですが、時々考えてイヤだなあと思ったりします。仕方がないんですけどね。文明が高度になるにつれて法整備というものも
緻密に、精密にと進むようです。
 例えば昔先生をしていた頃、「教育関係法規」なんてものがあってパラパラ捲ってみたことはあるんですが、細かい文字でたくさん書いてあって、即降参でした。
 「六法全書」がありますが、それで全部じゃないですから。改正も含め、新しい法律もたくさん作られているようです。一番法曹界の人が大変なのでしょうが、留まるところを知らない勢いで増えて行くのでしょうか。想像するだけで恐ろしい。パニックになりそうです。
 一般の社会人は、そのようにして成り立っている社会に生活しながら、直に法律とで合うことは稀ですし、多分よく分からないのがほとんどだと思います。
 弁護士が繁盛するし、悪用する輩も増えますね。作る時はよいと思って作るのでしょうが、その時は国民の負担になるなどのことは考えもしていないのでしょうね。金がないと裁判も起こせないし、なんだかやっぱり結果としては金持ちに都合のよい仕組みです。


2025年7月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「告白の方程式」です。

 個人的には縁がなくなりましたが、社会を騒がせる色恋沙汰は大昔から現在まで、依然として中心を占める問題の一つであるようです。
 そのなかでも告白は、間接的な自己表出欲、表現欲、表出欲の最たるものです。
告白は言葉の表現ですから、それ自体が間接的で、迂回した欲望です。欲望を直接的行為的に表出すると、極端な言い方をすると強姦ということになるでしょうか。それから言うと、ものすごく回りくどくやっている訳です。動物から距離を置くようになった人間は、そうなってきた訳です。
 一応、人間はそう進んできたので、だいたいその流れで言うと、紳士淑女的に相手に「好き」と言うことをまず伝えます。これがね、なかなかタイミングが合わなくて、いろいろと難しいのですね。
 今日の作は、ぼく自身の「告白の方程式」を引用したものです。告白しては倒壊、沈没を繰り返しました。それでね、辛い思いをたくさんした訳です。けれどもそれがね、実人間、実社会を知る上でとても為になった、そこからたくさん学んだ、そう思います。
 ぼくの場合は、これ以外のことではあまり自分から能動的に働きかけると言うことはなかったのです。それで頑張ってやって、案の定、叩きつけられて、跳ね返されて,苦しく悲しい思いをたくさんしました。で、そのこと自体は面白くはないけど、勉強には成りました。一生懸命、いろいろなことを考える契機にはなったと思います。七転び八起きですかね。いろいろあるんだよということになると思います。


2025年7月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「消えて行く記憶」です。

 今回の作のように、突然脈絡もなく昔のことを思い出すと言うことはあると思います。今回ですと日常のほんの些細な場面で、時間帯なのか、明暗を伴う情景なのか、昔感じた感覚と同じ感覚が降りてくることがあります。
 そういうことは他人に通じない、他人と共有できないとすぐに判断されてしまうもののようです。そのことは何も重要事でもなくて、ほんの些細な一瞬なのですが、何となく去りがたくて、心の陰影として少しの間引き摺る訳です。で、そのうちに奥にしまい込まれるのか消え去るかして忘れてしまいます。
 内容的なことは別にして言えば、そんなことの頻度は数としては結構な数かも知れません。たいてい忘れますから,何度とも言えませんが、結構やってるよなと思います。意味も価値もないのですが、「あっ」と思って、そしてそのまま白昼に消えて。
 タイトルは、はじめに「身体記憶」と考えて、そこから「内臓記憶」、「臓器記憶」など変遷しました。いずれも不明瞭さがあったので、ぼんやりとただの記憶として、それはおそらく生涯に何度も繰り返して興り、また消えて行くので今回のタイトルに妥協しました。
 無意識に興る反射のようなものだと思うのですが、どうしてこう言うことをしているのかなとか、必要なのかなとか、合理的じゃないよなとか、功利的でもないなとか、いろいろに思いますが、さっぱり分かりません。成ってるもんはしょうがない、認めろ。
それで終わり。そういうことでしょうが、このわからなさの面白さ、年取ったらこういうことでも楽しさと勘定しなければやっていけません。そう締めくくってこれは終わりとします。


2025年7月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老後を行く」です。

 「一寸先は闇」という昔からの言葉がありますが、考えてみると、今の1秒先は未明で未経験で闇の中です。でも1秒ですからすぐに現在になってしまい、既知になります。未明から既知を通過する連続が生命的な体験とも言えます。本当は1秒後は体験できませんから闇であって、1秒後1秒後と見て行きますと、闇闇闇と続きます。
 人間に限らず生き物というものは、そういう所を生きているのだなあと改めて思い、また不思議な気がします。人間はこれを連続するもののように扱いますが、厳密に言うと非連続の連続であって、残像という現象を伴い、これを連続するもののように見なしているのだと思います。これは生き物の受け入れ方の仕組みや構造の問題で、自然の現象とは無関係で、一種生き物の戦略でしょう。そうしないと生きていけないのでそうなっていると思います。
 こういうことを考えるときりがないので止めます。現実に戻れば現実なりの問題も山積みな訳で、処理することを求められます。忙しいですし、人間の脳の処理能力がはたして耐えられるのかという問題も生じます。そんなことは知ったこっちゃねえと逃げることも時に必要です。


2025年7月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「〈なみ〉の方角」です。

 タイトルの〈なみ〉は「波」ではなく、「通常」の意味合いで使いました。
 普通とか通常とか、そういう方角を目指して来たという感覚があるので、それを受けてのタイトルということになりますか。まあ、でもそれほど考えてのことではありません。いつも通りの即興です。
 ただ、そういう心づもりで進んだのに、普通でも通常でもないなと言う戸惑いはあります。全然違ったじゃないか、と言うことと、社会が言うところの「普通」が、その内側に入り込んでみると少しも「普通」じゃないと、そういう二つのことに突き当たった気がしています。
 こういう心的な経験、心的な体験というものは、なかなか人と共有できないところで、ひとりでこそこそ観察したり研究したりするほかないですね。喪失ばかりで得るものはないです。
 いずれにしてももう引き返すことも出来ませんから、ずるずると前に進むほかないということになりますかね。そういう現状ですが、毎日の作もそうですし、それなりの生き甲斐めいたものは皆無な訳でもありません。針に糸を通すような集中、緊張も口にはしませんが、あることはあるのです。自分で元気を調達しながらどこまで進むことが出来るのか。ほぼほぼアメーバと変わらない動きなんだなって、自分のことを思います。動ける間は動く、ただそれだけのようです。


2025年7月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「寂しさの現在」です。

 頭で理解していると言うことと、例えば現在加齢や老化に直面して実感することとはずいぶん違います。未体験を体験している渦中ですから、理解もなにも、頭の中の既知の理解事項は何の役にも立ちません。何も、と言いきるのは少し言いいすぎかも知れませんが、そう言いたいくらいのことを現在進行形の形で体験している訳です。で、この辺からはもう共有できないくらい、個々の断絶が大きくなる気がします。
自分の老後体験は自分で観察しないと、誰も目を向けない訳ですから、自分で観察していくしかありません。観察して報告して、同じような報告をしてくれている人がいれば、その人との比較が出来ることになります。事例はたくさんあった方がいいと思います。今のところは既知の理解事項が多くて、通念的通俗的なそれに引っ張られて行きがちです。本格的な人間の老後というのはこれからではないでしょうか。


2025年6月30日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「80億人分の1」です。

 世界の人口が80億人を超えているらしいのですが、それを知って感じたことを書いてみました。
 まず80億人のですね、生き方が誰一人同じと言うことがないことを考えて、改めて少し驚きましたです。考えれば当たり前のことですが、みんな違った生き方と言うことは、生きて感じ考えることもみな違っている訳です。その差異は、時に、千里の径庭のように思える時もあるのです。そこで切り取って言えば、それが80億ですから、千里の径庭も80億通りです。
 それだけでなくて、全ての生き物に敷衍して考えると、とんでもない天文学的な数になります。それがみな生き方も感覚も全てに差異があるとなると、理解と言うことに絶望的になります。

 宇宙に星雲としてかたまりを作っても、星々は単体で孤立し、孤独です。実際には他との距離な大きく、ポツンポツンと存在しています。それぞれに関係があるとすれば引力の作用だけ。1個1個を擬人化しますと、会話も成り立たない中で存在していることになります。
 人間も言葉のなかった時代がありますから、星々の引力のような、そんなコミュニケーションしかなかったと想像できます。でも、本当は、それが初源で、基礎であり基本なのではないでしょうか。もちろんそれが根本にありますから、言葉を使うようになった現在でも、バックヤードでそれが働き続けていることは間違いなくそうだと思います。

 で、それがどうしたということになりますが、ちょうど時間ということになってしまいまして、ここで終わらせていただくと言うことに相成ります。ここまでのお付き合いありがたく、御礼申し上げます。(お囃子と拍手)


2025年6月29日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言ってみたいだけ」です。

 「てならいのうた」を始めた頃はバイトをやっていたと思います。時間の捻出に苦労していたと思いますが、何となくコツを掴んで毎日続けられるようになりました。特別毎日書き続けることを課していたのではないですが、何となく行けそうだなと言う気がしました。
 バイトを辞めて時間的な余裕が出来て余裕かなと言うと、思いのほかそうでもないですね。逆に集中度が低下した気もします。だらだらしてしまうと言うことです。反省ですね。


2025年6月28日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「〈範囲〉考」です。

 現在の世界人口が80億くらいですか。で、日本は1億2千万強。
 もちろんいろんな人が居て、いろんな人生があり、悲喜こもごもに現在を構成し、また現在を更新して行っています。ある範囲内で流動しているのが常態ともなっています。
 小学校教員時代に、子どもたちがどういう大人になっていくのかなと考えた時に、考えるまでもなく未来は現在の中にある訳で、その先にはただ顔をすげ替えただけの社会構成があるとことになります。つまり、現在存在している大人たち、百人百様ですが、同じように百人百様になって行くのだと思いました。そこには大雑把に言って公務員もいれば民間人もいて、犯罪者もいれば警官もいます。また大雑把に言えば十年前も二十年前も同じだったし、当分の未来もまた同じで、変わらないという気がしました。もっと言うと、ほったらかしにしたってそういうことになるし、先生たち全員
が気合いを入れて教育したって、おんなじだろうって思いました。また、自分が先生だろうが、代わりにほかの誰かが先生をしようが、変わらないだろうとも思いました。
そこのところでは、誰が先生をやったって変わり栄えしないよ、と思いました。最終的には現在の社会の大人たちと同様に社会に散らばっていく訳ですから。
 急に先生がよくて、教育がよくなって、社会が善人だらけ、聖人だらけになるなんて、そんな想像をする人はいないでしょう。
 現在の社会の構図ってのは、50年くらいはほぼ同じように継続しています。ぱっと見の形がパターン化し、常態化しています。そしてこの常態化を根本から変えようという動きはさらさらない訳です。言葉を換えれば、国民全員で容認さえしています。小さな文句や苦情はたくさん出ますが、では自分がそれを変えようというのはいない訳です。これも変えるふりをする人はたくさんいますが、なんせ口だけで、勉強もしていなければ自分で分析、解析する人もいない訳です。出来る訳がないです。出来ないからしないのは、容認していることと同じです。そうしますとそれは、子どもたちが今の大人たちのように散らばっていくのを容認するのと同じです。
 今の教育、今の教育界は楽勝ですよ。子どもの行く先は決まっているんですから。将来の犯罪者、引きこもり者自体がもう容認の中にあり、容認されている以上これを育成しても、それで普通な訳です。行き先は決まっているから教育は素通りさせていけばいい訳です。幼稚園から送り込まれた子を、大過なく中学に送り出せばいいのです。最終的に高校か大学から社会の中に送り込めば、半ば自動的に現在の大人たちの有り様のどれかに誘引され、はまっていく訳です。それは、今の社会では一般的で常識的な子どもたちの未来です。
 ちょっと佳境に入ってきたところですが、長くなりそうなのでここで中断することにします。針に糸を通すような、慎重に論を進めなければならないところなんです。元気、気力があればですが、いつかこの先を考察しなければいけないとは考えますが、
厭だな、とも思っています。


2025年6月27日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「クーデター」です。

 階層があり上下があると、ただそれがあるだけで上から下へのいじめが成立する。これは上が優しいかどうか、思いやりがあるかどうかとは無関係に成立してしまう。クーデターが起こる根拠のひとつはそれだ。階層があり上下があると、いじめが成立し、下にあるものはいじめに忍従するか反発してクーデターを起こすのどちらかになる。上が階層を容認し、上下を解消しないでいる限り、したたかな懐柔策を持ってしてもクーデターを完全になくすことは出来ない。
 いじめの場合、やられたらやり返すのが鉄則だ。躊躇してはいけない。反発して初めていじめる側は気づき、心が揺らぐ。そうなれば、初期の一時的ないじめは解消したと同じだ。大事なことは、互いにそれ以上深追いをしないことだ。
 階層、階級は制度的なものから来るものだから、単にクーデターを起こしただけでは済まない。階層階級が消滅するまでは繰り返し続く。国レベルのクーデターも過去に何度も起きている。これは政権が移動するだけで、何度も移動されたが階層や階級の制度そのものは残り続けたから、やはりクーデターは誘発されるのである。警察や軍隊などで抑止しても、絶対に抑止しきれないものだとは歴史が証明している。
 階層、階級がだめなものだとははっきりしている。つまり抗争はずっと続くと言うことだ。そして大事なことは上にも下にも正義も大義も存在しないと言うことだ。上からも下からも、階層、階級の構図と構造とが消滅させるような模索が為されなければ、永久に解決しない。気の遠くなるような話なので、もう止める。


2025年6月26日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「そんな時代じゃないんだな」です。

 テレビをつけると、どこかのチャンネルで必ず、日本をどうするかとかこの国をどうするとかの発言を聞く。たいていの場合、発言者の口から出る「日本」や「国」が、これらの言葉に対する現在的な認識の水準にあることは承知するが、それ以下でもそれ以上でもない。つまり一般的な認識であり、停滞した認識だとも言える。分かりやすく言えば通俗的な認識である。そういう認識の元に、この国をこうしなければならないとか、日本をこうして行こうとかいわれても、何ら目新しく感じない。小手先だけの変化を、うんざりするほど言い続ける、そんな輩にしか見えてこない。
 またそんなことが現実化に向かったとして、どういう結果になるかと言うことも繰り返し繰り返し見せられてきている。上手くいくことはまずない。だいたい行動に移すと、以前より悪くなり、じり貧になることが多い。

 その辺の周囲を言葉化したかったのだが、疲れもあるのか、つい高倉健とか菅原文太とか石原裕次郎とかの名前を出すことになってしまった。最後の銀幕スターと言ってよいのか、彼らが活躍した頃は、映画を見終えた観客はみなスターになって、仁義なき戦いの中で仁義を貫く顔つきになっていた。
 それが頭に浮かんで、後の勢いが少しそちらにシフトした。要するにちょっとそちらに流れてしまった。そうして書き切ってしまったので、修正も戻りも効かなくなった。そんな一篇となった。


2025年6月25日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「見送る」です。

 毎日適当に、何なら掃除や洗濯と同じくらいの感覚で書くことをこなす感じでやってますけど、これがまあスムーズにこなせるようになって来ています。
 今日のも一旦は、でまかせで一連二連と進んだんですが、そこから収束を考えて行く時にずいぶん手間取ってしまいました。一からやり直すことも考えました。
 久しぶりに悪戦苦闘した、それだけのおしらせです。

 もう一つお知らせしておきます。
 これはお知らせていると思い込んでいたことですが、もしかすると言ってなかったかもしれません。一週間前くらいですかね。「掲示板」のなかでたびたび紹介しているnishiyanさんですが、今回も投稿してくれて、ぼくとの間で書簡のやりとりみたいなことをやってますので、ぜひ「掲示板」の方にも立ち寄ってください。よろしくお願いします。


2025年6月24日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「嘘」です。

 NHKの土曜ドラマで、綾瀬はるか主演の「ひとりでしにたい」を見ました。シリアスな内容をドラマ化していますが、コミカルな要素をふんだんに盛り込んで、テンポよく軽快に仕上げていて面白かったです。
 1話では、主人公が独身の三十代後半の会社に勤める女性で、未婚の叔母の孤独死という問題に直面します。自身もまだ未婚なので、まるっきりの人ごとではない訳です。そこからいろいろ話が展開していくのだと思いますが、まだ1話ですから、助走段階だと言うことだと思います。
 まあ今日的な問題と言えば今日的な問題で、タイムリーな企画だとも言えましょう。たぶん最後まで、重くも暗くもならず、軽快にそしてコミカルに描かれると思いますが、そこにまた現代性、現在性というものを感じます。視聴してほしい訳ですから、どうしたら視聴してもらえるかを考えれば、そういう手法はとても重要だという気がします。老後、介護、孤独死などは大人な問題ですが、ひとりではなかなか考えが進まない領野でもありましょう。他人の考えも聞いてみたいと言うことで、ドラマの中に示される作者の考えは、参考にもなるでしょうし、共感が喚起されるのかも知れません。
 そういう所とは少し別に、やはり、NHKはドラマを上手く作るなあと感心しました。そうして自分にもそうした表現の技巧がわずかでもあったらなあと羨ましく思ったという訳です。もっと頭を使って、考えて作って考えて作ってをたくさんしないとだめなんだろうなと思いました。なので、そうなるように頑張りたいと思います。


2025年6月23日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「最強の戦士」です。

 今日もダサいタイトル、ダサい言葉遣いで不毛と徒労をやっております。
 冒頭の偉い人は徳川家康を思い浮かべています。例の、人生は重い荷を負って山道を登るが如し、云々を言ったと伝えられています。大将軍として、さぞ重い荷を負ったことでしょう。ですがね、僕のヒーローたちはそんな比じゃありません。
 家康が組み体操の一番上に君臨し、また一定程度君臨し続けるためには、バランスをはじめさまざまに工夫する必要があったでしょう。下手すると落っこちてピラミッドタワーの全体が総崩れになってしまいます。その責任も大きい訳です。けれどもそれは頂上で為す一瞬の技に過ぎない訳です。
 頂上での一瞬の出来事に比べて、タワーの一番下でかがむ者たちは、はじめから最後までじっとタワーを支え続けています。それこそが金剛力でなくて何でしょう。
そこの人たちにスポットライトが当たっていれば、ぼくは特に言うことはないのです。だがそうなっていないですから、いつもみんなの反対ばかり言いたがるぼくは、やっぱり反対のことを言いたくなるのです。みんなが逆に下の人ばかり誉めて遇していたら、頂上に立つ難しさをもっと考えろと、たぶんぼくは真逆のことを言うと思います。要するに、平等に評価しましょうと言うことです。平等に評価する視座を、みんな持ちましょうと言うことです。
 理想は、社会を構成することにおいて、タワー型は止めましょうと言うことだと思います。縄文以降、と言えるかどうか分かりませんが、歴史的社会はピラミッド形態を築きあげてきました。その形態を洗練させて、げんざいのしゃかいが成立していると言ってよいと思います。ピラミッド型としては完成形に近いと思います。それでも何か永遠の不具合が見つかるとすれば、こういう形態を変える、そんな課題が出てきます。でも、この先はぼくが考えることじゃないですよね。どなたかにお任せすると言うことになります。

 さて、まだ6月の下旬ですが、夏日が続きそうですね。確実に季節外れて早くなってきた感じです。下手すると7月の末には秋が始まるとか。まあ、ちょっとずつずれる分には心構え一つで対応できるでしょうが、晩年にまで激動が続くものかと内心では思いますね。成熟どころの話ではないです。次々に局面が変わり、ずっと青臭いままでいなければならないし、また緊張感も持ち続けることになりそうですね。
 総合的に考えると、若さを強いられてくる時代とでも言いましょうか。なかなか隠居風の爺さんにはなれないのかも知れないです。仕方がないので、これからも頑張りましょう。


2025年6月22日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「修羅への出口」です。

 気楽に陽気に書いてみようと思ったら、このような作になりました。いつも長くてくどいので、短く書いてみたいとも思いました。
 パチンコ台で「花の慶次」という機種があります。その中の決め台詞に「これより我ら修羅に入る」と言うことばがあり、これが好きです。もともと「花の慶次」と言うマンガがあり、物語の原作者と絵を描く漫画家がいると思います。そうしたもとの作者たちの意図、あるいはこれをパチンコ台に組み入れた製作者たちの意図がどういうものかは分かりませんが、自分の勝手な受け取り方で好きだと言うことになっていると思います。
 深い意味はありません。カッコいいなと思っていて、時々脳裏に浮かぶ台詞と言うだけです。「これより我ら修羅に入る」。この雰囲気をちょっと借りてみた、それくらいです。
 「修羅」と言えば宮沢賢治に「春と修羅」と言う詩と詩集とがあります。宮沢賢治は夭折してますから、もちろん若さを感じさせます。よぼよぼの「修羅」は想像できませんよね。若いエネルギーなり、壮年の力強さなり、「修羅」の言葉にはそんなイメージがつきまといます。
 そんな「修羅」という言葉なり文字なりを年寄りが口にする面白さ、滑稽さ、そういうものが、真面目さの裏で出せたらいいなと考えていました。


2025年6月21日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「統括者と民」です。

 ふっと伊達政宗の名前が湧いて、令和のこの時代でも政宗の名が出ると、なんとなく県内外を問わずこれを持ち上げる風潮が残っているなということを思った。
 一応歴史上に名を残しているから敬意を持って遇するこの島国の常識故と思うが、本音を言うとそれほどの関心はない。
 令和の今日で言えば、宮城県知事の村井さんと言うことになるが、こちらにしてもさしたる関心はない。
 県民の多数は、ぼくとそれほど違わないと思う。ただ、テレビなのか新聞なのか、そういう統括者の名前を出す時に、敬意を持って遇する雰囲気があり、またそうすることが習慣のように続いているように思う。現実のそして実際の住民は、そんな意識はほとんど持ったことがないと思う。だが、巻き込み事故みたいに、そういう全体的な雰囲気の中に否応なくぼくらも巻き込まれてしまっているようだ。
 宮城県民が、伊達政宗を誇っているようなテレビでの紹介の仕方などを見ていると、これは作られたもので嘘だと分かる。県民のほとんどは、ふだんは何の関心もなく過ごしている。テレビで取り上げられ、取材などされたら、仕方ないのでそれらしい答え方をすると思う。
 県知事についても、一度も会ったこともないし話したこともない訳だから、興味も関心もない。遠い存在だし、時折名前を耳にするくらいだから、とっさに現在の知事は誰かと問われても名前が言えるかどうか分からない。いわば縁のない人のひとりだと言えるに過ぎない。
 ぼくらがそうだから、伊達政宗の時代の藩内の農民たちも似たようなものと推測する。山奥の実家の集落のご先祖様たちも、藩主伊達政宗の名前は生涯に何度か耳にするくらいで、覚えていなかったかも知れない。
 なんだか分からないが、上に君臨する存在があり、そこからの指示や命令に背いてはならないことだけは知っていた。そういう所では現在も似たような所にいて、近代現代と大きく変化を遂げても、何となくの構図はあまり変わっていないという気がする。そこからもう少し展開できればよいのだが、そこまでは行けないでしまった。


2025年6月20日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「次のステージの始まり」です。

 意識は自身を万能と思い込んでいる。自分に対して神のように君臨している。特に身体に関しては無関心で、時に病気になって自分を苦しめる厄介な代物と考えることさえある。
 それはちょうど社会という構図の中で、上層に君臨する指導層と下層に押し黙ったままの大衆との関係性によく似ている。指導層の主たる関心は大衆に向かっているのではない。指導層の意識そのものの外化である。意識の実現、自己実現である。大衆は、その為の条件、道具、位にしか考えられていない。

 極端な言い方をすれば、意識はまぼろしである。嘘である。だが意識は自分がまぼろしで虚像、すなわち嘘だとは認識できない。逆に絶対だと信じ込んでいるのだから始末が悪い。だが、そんなふうに出来てしまっている。そんなふうに出来上がってしまっているので、これは変えようがない。

 変えようがないが、変わらなければならない。どうすればいいかと言えば、意識的に、「俺は神でも絶対でもなく、主人公ですらない」と思い込む、その一点である。時々でいいから、忘れた頃にこれを思い出し、ハッと反省をする。それだけでよい。それだけで事態はまったく変わったものになる。これは人類史という長きにわたっての習性と習慣の否定みたいなことだからなかなか容認されないだろうが、ほぼほぼの人が薄々感じてきているのは間違いないことだと言える。
 大きなことは言えないし言わない。個々人が時折このことを顧みる、それだけでいいのだ。強制も啓蒙もいらない。ただ思う。時々思う。それがとても重要なことだ。すぐにはなにも変わらないが、確実に変化は起きる。


2025年6月19日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老いの今日」です。

 生命を運動で見ると受容と出力になると考えるとします。これがもし真ならば、単細胞から多細胞に至る全ての生命体は、すべからくそれを繰り返していることになります。生命の基調ですから、単純に抽象化して考えてみると、そういうことになるような気がします。そうするとどんなに高度化し複雑化した、例えば人間のような生命体でも、おおもとはそれの繰り返しであって、要は受容と出力自体が複雑化し高度化していると考えられるように思います。
 何が言いたいかというと、環境や環境が働きかけてくる刺激を受容し、同時に、環境に向かっての働きかけを出力するのが、全ての生命体が行っていることだと思うのです。つまり多様な生命体が多様な入出を繰り返しているのですが、その基調は入出という一点でまったく同じだと言えます。
 そこまで考えてみると、これは素人考えですけれども、高度化複雑化した生命体をさらにいっそう高度に抽象化すると、単細胞単体に行き着く、あるいは単細胞単体と同じだというところまで行くんじゃないかという気がします。
 つまり人間は言葉を使って知識をため込んだり技術を発展させたりしていて、高度で高級な生き物だとされていますが、それは単に気の遠くなるような複雑化を果たしただけで、本当は原始生物とさしたる違いはないのではないかと思えます。
 なぜ生きるか、どう生きるか、時にぼくらはそう考えて悩むことがありますが、基本の基本に遡れば、原始生物みたいにただの反応の繰り返しだというのがホントの所だと思います。
 さてそこで、次に、それでどうした、それがどうした、それが何だと言うことになると思います。ですが、それから先は非常に面倒なことなのでぼくはやりません。
 ただこのように考えてくると、現在の人間社会のあの人もこの人も、みんな単細胞の化身と言うことになります。なんだ、と言うことになります。
 そしてそれはそれだけのことです。その場にずっと佇んでいることは出来ません。人間社会の日常に立ち戻って、そこでの過ごし方に入り込んでいかなくてはなりません。乖離し、隔絶した生活です。そこに入り込んで頑張らねばなりません。皆さん、頑張りましょう。


2025年6月18日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「無知や非知の底力を舐めるな」です。

 今日の作について言えば、ちょっと言い切れなかった気がします。タイトルをアレンジすると、子どもや大衆を舐めるな、と言うことですが、通用しないだろうなあとは思います。

 ここからは一転、兵庫県問題について言います。

 兵庫県知事の斉藤元彦に対して、かつて自らも大阪府知事でもあった橋下徹は、一貫して権力者の権力行使の仕方を間違えていると批判している。権力者としてやってはいけない権力の行使をしたと言う指摘だ。
 それは何かと言うと、斉藤県政に対しての告発に対し、初動で犯人捜しをし、明らかにしてその告発者を徹底的に追い詰めて告発者潰しをしたことだ。

 歴史的に見て、ある一つの組織や機関の長の行状に対して異を唱え、反抗した例は山ほどある。今回の兵庫県の告発も、そういう例の一つだ。
 一通り目にすることの出来た範囲の内側で言えば、ぼくは斉藤元彦の度量の小ささが発端だと思う。告発内容が事実かどうかは別にして、拙速に潰しにかかったことは間違いないことで、要するに後先考えずに反射的に反応した結果が今日の県政のゴタゴタにまで繋がっている。
 やましいことがあったのであれば、潔く辞職するのが筋だし、そうでなければデンと構えて状況の推移を見守るのが普通の対応だった。人間としての器が小さいので、反射的に保身に走り、拙速な対応をした。権力者としてはあまりに幼い対応だというほかない。
 この問題の本質は上記のことに尽きる。斉藤元彦個人に特異性はない。ありふれてあほな権力者のひとりだと言えるに過ぎないと思う。ただ人間斉藤元彦については分からない、言及は出来ない。あちこちにいるただの頭の良さそうな人という、大雑把に言えばそんな印象を受ける。あとは誰もがそうであるように、時にやさしく、時に冷酷でと言った多重な側面を持っているに違いないとしか考えつかない。
 この問題はありふれて人間的な、人間ならやりかねないという部分と、もう一つ、別の角度から派生するシステムの構築の問題との2つがあるように思える。敢えて短絡的な言い方をすると、人間性として大きく括って考えた時に、現行の社会システムは妥当なのかという問題として跳ね返る。そしてその答えとして、現状のシステム化では、これまでもこれからも、何度も繰り返されるとしか言いようがない。全体の仕組みが変わらないと、繰り返し人間はこんな事をやっちゃうよ、と言うことだ。


2025年6月17日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ぼくならば言っちゃう」です。

 政治は脳の働き、精神の働きを象徴する一つの分野だ。政治が社会の前面、表層、表立って騒がしかったり賑わったりする時は、いつも最悪の事態の前兆だ。気をつけなければいけない。理想を言えば、政治という分野や領域が社会的に死ねば、それは理想の社会と言える。政治家という種族も同じことだ。

 今日の作で取り上げた造語の作り手安藤昌益は、実は漢字そのものについても作り替えを行っている。実例を挙げるほどに覚えているわけではないが、例えばで言うと、「作」の字の「にんべん」は「しんにょう」であるべきだとか、そういう類いのことを真面目に行っている文章がある。これは途方もないことだと思える。孔子や釈迦を批判したことも途方もないことだが、出来合いの文字、漢字を、これは間違いだからこう修正すべきだという主張は、それに輪をかけて途方もないことだ。マツコ流に言えば、「狂気の沙汰なんですけど」と言うことになる。
 寡聞にしてこんなことは他に聞いたことはないし、安藤のその文章を正面から取り上げて批評している文章も見たことがない。いちどぼくも挑戦して論じてみようとしたが、漢字一文字一文字、また一画一画がどのように作られたかなどの素養が一切ないので諦めざるを得なかった。それについての安藤の文章もまた、ちんぷんかんぷんで、まったく歯が立たなかった。
 これは誰がどう考えたって「暴挙」である。せいぜい一部の信者たちに、苦く容認されただけで、もし広く公開されれば黙殺か、あるいは狂人扱いされて終わるところだ。
 けれども安藤はいたって本気で、大真面目にそれを語っている。
 受け入れるかどうかは別にして、誰かひとりくらいは安藤の大真面目に付き合ってみるべきだとぼくは思った。なぜならば、安藤は少なくとも、感じが作られ始めた頃に遡って、そこまで自分を飛ばして考えているからである。つまり考えると言うことの、本当の誠実さというものがそこに内在するからだ。
 つまりどう言えばよいだろうか。安藤のそこでの行いは、ぼくの好きな言葉で言えば、徒労と不毛の極致なのだ。知の働きとして、悪い意味ではなく、一線を越えていると感じるのは、この安藤昌益と島尾敏雄の2人である。この2人から見れば、太宰治や吉本隆明はぼくらと同じように一線のこちら側にいるとぼくには見えている。太宰治や吉本隆明の全貌は、何となくの推測がぼくらにも可能だ。だが安藤や島尾については、その全貌が想像さえ出来ない。もっとギリギリの場所に立っているように見える。
 ぼくらの社会はそこに関わらなくても、何となくやって行けている。そんなところでは安藤や島尾が当面した問題の本質にまで降りて、自らも対峙する必要はどこにもないというべきである。黙殺され、忘れ去られて当然と言えば当然なのだ。けれども依然として、解明されない問題はそこに居座り続けるということも確かなことだ。
 最後に吉本隆明の、「こういう人はたいていの場合は救いになりませんが、本当に困ったとき、まいったというときになると、こういう人がいることが人類にとってとても救いになると思います」と言う言葉を借りて、ここを終わる。


2025年6月16日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「〈知〉〈情〉のもつれ」です。

 愛とは何かをずいぶん長い間考えてきたように思う。世の識者たちのようにではない。取説も用具も持たず、ただウンウン唸ってきただけだ。心に問う、自前のやり方を通してきた。
 ビートルズ以降と言ってもいいのだろうか、愛は個的なものとしてではなく、愛は時代の言葉としてもてはやされるようになった。時に騒がしく、賑わってもいた。そうした潮流に、ひとり首をかしげて久しい。誤解を怖れずに言えば、愛はそんなふうに取り上げて語るべきものか、少し違うのではないか、そんな思いが交錯していた。
 ところで、ある詩人の内省の言葉として、「自分は愛情が薄いかも知れない」と述べていたのを文章で見た。詩人はその理由を自らに問い、知的な思考の習慣がそれをもたらしたのではないかと結論づけていた。それを読んでハッと思った。愛が心に宿ることと、愛を考えることとは違う。
 意識という器の中に、情としての愛が盛りだくさんであるか、それを駆逐して知としての愛が占有すようになっているのか、これは一度は考えておいた方がよいと思った。まだ上手く解明できているわけではないけれども、それからまたずいぶん考えた。さらに考える一つのきっかけは、自分の両親の死だった。
 はっきり言えば、言葉に出来ない。世間に流布されるようにも、詩人のようにも、自分としては言葉に出来ないと思った。言えば、いずれにしても嘘になる気がした。言葉に出して言わなければ伝わらないと言うが、そうする必要のないことが、人間の社会にはあるような気がする。計量すべきものでもなく、分析すべきものでもない。言葉が遠慮しなければならない領域が、ある。それは自らにも他者にも、直接的に問うべきではないのだ。今日の作の後では、こんな思いに至っている。


2025年6月15日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言葉の旅」です。

 言葉の選択と転換の仕方で、詩の世界はずいぶん変わる。特に優れた短歌には、そうしたことを感じさせられる。五七五七七の三十一文字の制限の中で、工夫された表現には鋭さも広さや奥行きも、自由自在に込められている。俳句はもっと少ない文字で、同様に表現されている。ある場合は、同じようなことを同じように表現し切れていると思えるが、ただ受け取った時に、質の違いというものを感じる。そしてその質の違いは優劣ではない。詩もまた同じだと言える。体力も集中力も同じで、やっていることもほぼ同じだ。人間として同じだからだが、それでも出来上がったものには何かの違いがある。それでも既製の言葉を使い、入れ替え、並べ替えして作り上げて行くところは共通している。
 こうなるとほかの物作りの場合と同じことだ。そしてやはり、いいものを作るにはそれなりに時間も手間暇もかかる。
 ぼくの毎日の作は、少し違う。ずぼらでいい加減だ。これをよしとする考えがなければ、こうやって継続することは出来ない。切れ味鈍い包丁で料理を作っているようなもので、できあがりは食欲をそそらない。味もまずい。初めから振る舞いとして作るものではないのでそうなっているが、ただ長いだけの試行の後で、振る舞いに耐えるだけのものが書けたらいいなあという考えだけはある。10年後、かな。


2025年6月14日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「夏物語り」です。

 今年の大阪万博には何の関心もなかったのですが、相変わらずこうしたイベントには裏政治が跋扈しているようです。
 55年前、住友童話館で客寄せの「ぬいぐるみ」のバイトをしていました。東京のある小さな人形劇団の募集に応募したものです。
 自分の中ではいわゆる青春の一光景で、男女合わせて5人の仲間が童話館のほかの大人のスタッフたちの間に混じって、自由に、孤立して、活動していました。
 万博にも、童話館のメインの活動にも関心なく、5人は仲間内で「夏物語り」していました。振り返ると、輝き、悩ましき、幼い青春時代、でした。楽しかったです。ですが、一つ残酷なことがありました。
 ほぼ同年の5人は、男2人、女3人の構成でした。ペアが出来て女性ひとりがあまってしまいました。ペアになった者たちは、あまったひとりを可哀相に思ったはずです。そうして心のどこかで、そのひとりの人を「思いやって」行動していたと思います。そのように、行動するほかなかったと思います。その時の、「思いやり」の残酷さを、5人はそれぞれの立場で体験したのです。生きていれば、現在も、思い出すことはなくなったにしても、5人にはその時の記憶が刻まれていると思います。それぞれにその時を超え今生きてあるとすれば、その人たちに幸あれと願うだけです。


2025年6月13日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「消えた蛍火」です。

 ぼくの側ではと留保をつけなければならないのだが、文学は科学的言説に超えられてしまった。科学的言説の方が面白いと感じる一時期があった。「美」よりも「真」ということでもあったろうか。
 西洋の知、科学知は優れたものだが、その後のまたある時期から、コンピューター知に過ぎないと思うようになった。絶えざるデータの蓄積と解析の繰り返しだ。そしてその知と、知が教える真は我々に対して支配的だ。
 真は絶対的だが、ぼくは絶対を手にしたいわけではないし、意外に絶対はつまらぬ、そう考えるようになった。結果として知は人間を拘束するように作用する。
 真に対して美は、最初から最後まで「まぼろし」であり、「架空」である。勝手に美しいと思い込んだり、言ったりしても良いものである。万人が万人歯牙にさえかけぬものを、ただひとり美しいと言い張っても成立する。
 世界中でただひとり、それを美と評価し、例えばそれを観察し続けていると考えると、これはもう何ものにも代えがたい事実ともなる。さらにその発見は、歯牙にさえかけぬ万人の内の、たったひとりでもよいから共有できる人を持ちたいという衝動に駆られて行く。
 真と美と両方に、心と頭とを開いておけばいいわけだが、探求となるとそんなに欲張ることは出来ない。ぼくとしてはデータの収集の手間のようなものもなく、ひとりで勝手に探索できる「美」にのめり込む方が、気楽で、またやりやすいと思う。いろいろやって、老後に残るものはそれだという、ただの味気ない実際かも知れないが、いまはまあそんな場所に立っている。


2025年6月12日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「弱者の闘い」です。

 現在の日本社会が、自由主義なのか民主主義なのか、はたまた資本主義と呼ぶべきか、そういうことはもう見えなくなって、同時にどうでもよくなった。ただ何とか主義というものはあって、それは幻想上の価値として社会の上辺の動向に影響していると思う。それは、ぼくは言葉にしては言えないが、見ての通りのことが時代の価値観を象徴しているのだろうと思う。
 それもまた、自分にとってはずいぶん遠く隔たっているもののように見える。分からなくなってきているし、今がどんな課題を主流として抱えているのかさえも推察できない。状況からは置いて行かれて、自分の老いの現状という狭い範囲を考えることになっている。
 ますます狭まり、道は細くなっていくだけだ。先端の時代の課題からは取り残されて、個的なことだけに絞られて行く。こうなるともう、自分の考えを他者に理解してもらおうとしても無理で、無駄だ。これからはよりいっそうそうで、誰も読んでくれる者、読んで共感してくれる者は皆無だと考えた方がよいことになる。さてそこで、その現実を前に、それでもなお書き続けることは出来るのかと言うことが、個の課題として匕首のように喉に突きつけられる。
 おそらく意味などない、単に個人的な作業になるが、逆に言えば、こういうことをやりきったという事例も少ないわけだ。仮にやりきったとしても埋もれてそれっきりになってしまうわけだから、永久に日の目は見ない。普通に考えると、馬鹿か異常かになる。前人未踏でも、前人未踏と周知されない。悲しくイカレタ所業なのだ。


2025年6月11日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「小人の救い」です。

 自分の人生何がよかったかなと考えると、何もない。そうして何もない中で敢えてそれを拾いに行けば、大きな悪をなさなくて済んだというその一事くらいのものだ。生きていく過程でどうしても触れあわなければならなかった人々に、厭な思いをさせただろうという記憶はたくさんある。おそらくそのことはどんな聖人偉人にとっても不可避のことに違いない。
 記憶に残っているのはそういうことばかりで、逆に人を幸せな気分にさせたと言う記憶はほとんどない。善人ではないので、世の中に向かって胸を張ってみせることは出来ない。経歴において誇るべきことは何もない。ただ、生涯を通じて大きな悪はなさなかった、そのことだけには、今はほっと胸をなで下ろすくらいの気持ちでいる。もちろん大悪を、頭から爪先まで否定しているというわけではない。大きな善をなそうと志しながら、結果として大悪をなしてしまうということはあるからだ。そこから言えば、大きな善に向かうという判断はしなかった。そんな器でないことは十分に知っていた。そういうことを知れた境遇であったことは、今となっては幸せなことだったかと思う。世の中を騒がすほどの人は、大悪か大善か、どちらかの人だと思う。そしてどちらにしても、内実として大変だろうなと思う。どちらにしても荒波の中を泳ぐ役目を引き受けているわけで、その意味ではいずれにしてもその労はねぎらうべきものと、個人的には思うところだ。


2025年6月10日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生き延びる宗教」です。

 ある程度作の形を整えると、次に作全体を要約するようなタイトルを探す。時間をかけてうんと考えるという仕方ではないから、いつも少しいい加減だと思いながら妥協してタイトルをつける。今日もそんな感じ。

 ぼくの中では、宗教と学校(教育)はよく似たものになっている。それぞれの言葉の上に見えない枕詞があり、その文字は思想とも見えるが、そうでないかも知れない。ただ、宗教と学校(教育)と言うそれぞれの言葉の上位に、同属を表すような何かがあるように思えるのである。同時に、その二つは現在、その上位の所から自ら下降し、ゆえに初心も初期の役目も自ら放棄し、ひたすら組織を守ることだけに専心しているように見えるという点でもよく似通っている。
 こういう見方は多くの人からは邪推と思われるだろうが、それはまあそれでよい。そこからすればぼくはいい気になって言っているに過ぎないのだが、そこにはぼくなりの理由がある。どういうことかというと、ぼくの見方にはぼくなりの、宗教や学校(教育)に対しての過剰な期待があり、それの裏返しとしてこういう言葉になっていると言うことだ。やはり古い人間なので、宗教や学校(教育)に対して並々ならぬ思い入れがある。何かもっと尊いもの、崇高なものを、思いを、それらに抱いているのだ。また、そう抱くように育ち、成長した。そこからすると、もうがっかりだよと、実に勝手に思ったりしているのだ。もちろんその思いは、同時に、自分に向かっても発動する。


2025年6月9日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「北極星に代わるもの」です。

 一般の生活者大衆と言ったものを想定する時に、標準的な生活水準から最下層の生活水準までと考えたい。そこをおしなべて標準から少し上の所まで底上げしていきたいわけだ。それを可能にしても、水準としては下層は存在するわけで、だからそれは永久革命ないしは永久運動と言うことになる。これは二十世紀には裏の課題として周知のことだったが、二十一世紀には表の課題として浮上してこざるを得ない。喫緊の課題としてはほかに山ほどあるが、遠い先を見据えた課題としてはそのこと以外には無いからだ。
 現行社会の中で、致命傷になりかねないさまざまな問題や事件は、量的にも質的にも中層から下層の層の中で起きている。もちろん上の層でもいろいろな問題や事件は起きているのだが、敢えて言えばそれらは社会にとって致命的と言えるほどの重たさではない。好き勝手な、いい気なご乱心と言った程度のものだ。
 大雑把にはぼくはそう考えていて、その延長上にこれからも考えを積み重ねていくつもりだ。おしまいなんてどこにもないから、時にだらだらと、ぐだぐだと、相変わらずのペースで行くだけのことだ。


2025年6月8日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人体と『わたし』考」です。

 意識と体というと、パソコンのソフトと本体を重ねて考えますね。パソコン本体がないと、当然ソフトは使えませんね。ぼくは主にワープロソフトとインターネットのためのブラウザとを立ち上げていますが、これも本体を起動しないと使えません。
 ここでの例えではパソコン本体が人体で、意識などはソフトと言うことになるでしょうか。
 現代人というと、人体と意識とで人間です。わたしはと言うと、だから意識と人体とでわたしと言えることになります。ところが意識は、たいてい意識としての「わたし」をわたしと見なして矛盾を感じないでいるようです。体がないと自分が立ち行かないにもかかわらず、ふだんは意識は意識として自立しているかのように振る舞っています。
 時々こういうことが気になって、ずいぶん考えます。ただこれは学術的な、あるいは学問的な考えるということではありません。もっと違う考え方感じ方です。こういうことは、普通の一般人もしばしば感じ考えていることだと思います。そしてそれは、学術的でも学問的でもないし、意味も価値もないんだと言うことになっているかと思います。ぼくはそう思わないです。意味や価値がないにしても、人間にとってはすごく大事なことなんだと思っています。学術的でない考えや感じ方が、実際にはあふれているわけですし、それがまた現実社会の動きそのものにもなるわけです。それを意味がない、無視していい、と言うわけには行かない気がします。
 ぼくは反対に考えます。学術的学問的なものは非常に分かりやすいものです。時間をかけ、労力をかけると誰にでも分かる。
 たいした考えではないにしても、一般の人の考えていることの方がよく分かりにくいです。時間と労力をかけても分かるという質のものではないのです。
 迷宮行きになりそうなのでここで中断しますが、人体と意識、そして意識としては大衆の、なんかよく分からない意識。そこはもう少し普通の一般人としても考えるのはよいことだという気がします。何か考えて業績を上げるとかではないのだけれど、つまりその結果はどうでもいいのだけれど、そこは大事なところで尊重されるべきなんだというように押さえておくのがよいと思います。


2025年6月7日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「肝心なこと」です。

 少し前に、NHKで人体シリーズのような放映があり、そのうちのいくつかを見た。最後に「腎臓」についての放送があったが、「腎臓は体中に情報を発信しながら、さまざまな臓器の働きをコントロールしている」ということで、人体という巨大なネットワームの要でもあると紹介されていた。
 大変面白く視聴したのだが、これを見て第一に思い出したことは、森における植物間の伝達のやりとりだ。植物は動物のように動かないが、葉からメッセージ物質を放出してコミュニケーションしているという話だった。内臓はぼくたちにとっては内側に蔵された森のようなもので、全体として窺い知れないところが多い。今回、腎臓を介して臓器同士のネットワークがあることを知り、それがまた役割としては非常に大きなもの、寿命を決めるとさえ言われていて、また一つ驚きが増えた。
 森の中の植物といい、体内の細胞や臓器といい、本当に複雑なことをなしているんだなあと改めて思った。
 こういうことを知ると、歴史に象徴されるような人間の意識的な活動の典型がある一方で、そういうものに録されない人体内のさまざまな活動があるわけで、意識的な面だけを見ていてはいけないのではないかという気がしてくる。
 まあ、ちょっとした道の半ばでそんなことを言ってみるに過ぎないのだが、これはこれでとりあえず、ただこれだけのことである。


2025年6月6日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「いっとう美しい心の動き」です。

 子どもの頃に、すごい人だなあと憧れた長嶋茂雄さんが数日前に亡くなった。その頃のぼくにとっては、人社会に一段と輝いて見えた太陽のような人だった。陽気なキャラクターの第一人者だったと言えばいいだろうか。中学の部活で野球部に入ったのは、もちろん、長島さんに憧れてのことだった。
 1年生の時、守備位置をどこにするかのテストで、内野のいろんな所で試されたが、結局は肩が弱くて3塁手にはなれずがっかりしたことを覚えている。
 高校生の時には太宰治という小説家を知り、傾倒した。こちらは長島さんとは真逆で、陰キャの代表みたいな所のある人だったから、今考えるとずいぶん振り幅が大きかったなあと思う。
 自分の中でこの2人に共通するところがあるとすれば、理屈なしに好きだという意外に無い、そういう所だったと思う。人間だからいろいろな欠点や短所はあるが、それらを含めて降参する、参った、好きだ。それで自分がどこかに運び去られてしまっても文句は言わない。そういうことを感じさせられた人たちだった。それは現在でも同じ気持ちだと思う。今でも自分の中では幾ばくかの理想であり、ヒーローであると
いった人たちだ。
 どちらからもどんどんと遠ざかるような生き方しかしてこなかった。出来なかった。仕方が無い。仕方が無いが、そこを振り返ると、逆にどんどん自分になってきたとは言える。そうして自分の自分らしさというものは、消去法で出来上がってくるもののように思える。


2025年6月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「縄文との再会」です。

 作の内容とタイトルに隔たりがあるかも知れないが、アマゾン流域の原始生活者、未接触部族の話を聞いた時に、即座に、現代に生き残った縄文人というような想像が働いた。そういう所から書き始めたのだが、上手く書き進められたか、いつものように納得出来ないではいる。
 未接触部族の人たちは、文明のどこかの時点で後戻りをして狩猟の暮らしに戻ったという人たちではないだろう。
 日本人のぼくの想像できる範囲で言うと、縄文時代人の中の一部の少数部族が他部族との接触を避け、山奥に籠もり続けて現代になってやっと発見された。そういう想像の仕方が出来る。また、そういう想像の仕方しか出来ない。もちろんそういう想像でさえこの狭い島国では無理筋なのだが、敢えて近似に考えるとそういうことになる。
 さて、仮にそれに近いことだと想像して、一万年の長きにわたって周囲に孤絶した生活を続けると、頭と心の発達は縄文期のままに停滞して、まったくそのままを維持するのかという疑問が湧く。そして次に、文明に隔絶した場所に生きるという選択は、部族にとって不幸な選択だったかという考えも湧いてくる。さらに発見された限りにおいて、これまで同様にまったく隔離された状態でこれからも進むとは考えにくい。どのように文明と関わって言うことになるのか。
 さらに言えば、それらのことは、現在社会における社会とその社会から自らを隔離する選択をした引きこもり者との関係に重なって感じられる。今の社会は、引きこもり者を一方的に社会の不適応者、不適合者と見なし、官民併せて「おいで、おいで」と現行社会に誘うだけに過ぎない。何割かは、そのことが功を奏して、社会に復帰できたと周囲を安堵させているかも知れない。だがそれは、対策としては少しも本質的でも根本的でもなく、対症療法的でしかない。
 両者には何か共通するイメージがある。それは多に対しての少、あるいは正に対する負のイメージであり、言うまでもなくほとんどの人は国家や社会の側に立って、小や負に接しようとするのである。ぼくはそう思わない。逆だ。現在に緊急の課題があるとすれば、それは少や負にしか内在しないところの大きくまた豊かな価値を、少や負の存在から掘り起こし発見をし、それに学ぶことである。それをしなければかえって、堅固と信じる社会および多や正の側の危機的状況は、知らず、深まって行くしか無いのである。ぼくは、そう思っている。


2025年6月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「届かぬ声・受け流される声」です。

 ここでも一つ、どこかの誰かに声を届けたいと、やさしい言葉で書いてみたりしているわけです。他人が立ち止まって聞いてくれそうな、そんな表現の仕方を工夫したりするのです。長い間努めてきて、工夫も努力もして、そういう言葉の力、表現の力がまるでないということが分かってきます。それでもいつかその力をつけて、声が届くようにと続けてきたのです。でもだめなものはだめなのですね。届けるだけの力が自分にはないと言うことです。
 ここで絶望したと言いたいわけですし、もう止めたと言いたいわけですが、まるで興味を持ってもらえない、手応えがない、そういうどん底まで墜ちて見るとそうとはなりませんね。どん底というのはどん底という足場がありますし、どん底に墜ちてみないと見えない風景もあります。逆に腹も据わります。どん底なんてめったに見れるものではありません。とりあえず目の前の風景を端から端まで見尽くして、これを表現するのはありだと思えるようになります。需要がなくても供給する側の理由はあります。表現されていないところだから、表現者にはそれが表現することの一つの理由になります。見る方には面白くなくても、書く方は面白く楽しいと言うことになります。そん泡毛で、まだ当分続けて行けそうです。


2025年6月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老いの日課」です。

 ある人物を、「息をつくように嘘をつく」と評した言葉がありました。それから言うと、ぼくらは「息をつくように文字を書く」と言うことになりますかね。
 呼吸というのは普段考えることもないのですが、もしかすると、意外と個性的なのかも知れませんね。微細に、緻密に見て行くと、個々に違っているのかも知れない。そんなこと想像したこともないですけど。
 書くことが毎日繰り返されて、それこそ呼吸みたいな事になってくると、書く当人にとっては大事なことになってくるのでしょうね。中身がどうであれ、当人にとっては生存そのものと分かちがたくなってくる。
 よい呼吸、よくない呼吸ってあるのかも知れないですね。たいがいの人は、それってどうでもいいと考えていますね。
 書くものにも良いもの、良くないものがあるかと思います。でも、それは結果ですから、どうだっていいやと言えばどうでもいいわけです。だんだんと、そういう境地に入ってきました。


2025年6月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「自他を救う一つの方法の試案」です。

 タイトルから何から問題だらけですが、どうにもならないのでそのまま掲載します。

 さて、昨日から新しいアドレスだけでの展開となりました。前のアドレスもレンタルサーバを借りての展開で、言ってみればおそらくは路地裏のさらに路地裏の所番地で、その家の在りかはほとんど知られることは無かったのではないかと思われます。それ以前はニフティーと言うおおきなマンションの一室に住み、まがりなりにも時折訪れる訪問者はあったのですが、そこを出てからは新規の訪問者は皆無と言ってよいくらいです。正真正銘の「引きこもる作品展示室」になったわけです。そしてまた、それはそれで、我ながらよくやるなと思ったりしています。
 移転に伴って、アクセスカウンターが上手く機能しなくなりました。昨日、これまた無料のものを見つけて試してみると、一応数字が出るところまでは行き着きました。しかし、アクセスを繰り返しても表示される数字は変化しません。しばらくは試行錯誤してみますが、だめならばこれは諦めることにします。まあカウントしてもしなくても同じです。飾りとしては意味ありますが、なくしてもどうということはないでしょう。
 これも含めて、パソコンとかネットとか、技術的な興味は自分の中で減衰してきていることがはっきりと分かります。ひっくるめて、加齢現象があちらこちらに滲出、浸透してきていると感じます。抗う元気もなくなっています。コロナに2度罹患してから、特に顕著だと自分では思います。また、仕事を辞めてからはほとんど家に閉じこもって動かないですから、そのことも拍車をかけているのかも知れません。一念発起、若返りを考えようかと言うことも無いわけではありませんが、怠惰もまた高齢の身には甘い誘惑となって囁いてきます。まだ呆けてはいないような気がしますので、今しばらくはこのホームページは閉鎖しないで続けていこうと思っています。今後もよろしくお付き合いのほどお願いします。


2025年6月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ぼくにはよく分からない」です。

 今日の作はタイトルにしたそのままのことです。いわゆる他との接触を未開原始から拒み続けて、今なおアマゾン流域に暮らしている未接触部族のことが頭に浮かびました。いろいろあります。いろいろ思うところはあるのですが、最終的にはぼくの手には余る、ぼくにはよく分からない。そういうことをそのまま記述しただけです。

 今日から新しいレンタルサーバー上での展開になります。これまで提供してくれていた会社が、別会社として新体制に移行する流れに従って、移行したレンタルサーバー側に移動する形になります。なのでほぼ同じそのままの移転で、それは簡単にできたのですが、やってみるとアクセスカウンターが上手く機能しないようです。まあ無ければ無いでいいので、しばらく試して無理なようだったら、もう無くしてしまおうと思っています。


2025年5月31日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「みんなまぼろし」です。

 以前からお知らせしているように、今日いっぱいでアドレスを1本化しますので、従来のhttp://kiminori.html.xdomain.jp/は無くなります。
 今日からはhttps://st835348.static.jp/に完全移行ということになります。新しいアドレスの方で今後とも継続してご覧頂きますようにお願い申し上げます。


2025年5月30日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「とある定例記者会見」です。

 頭が重い。鼻が詰まる。時々咳や痰が出る。けれども寝込むほどではなく、おきて普段通りの生活は出来る。それでも全体に体調がよくないと感じる。
 こういう症状は、いま、けっこう流行っているらしいと言うことをある動画で聞いた。病院に行っても特にはっきりとした病名を告げられず、鼻づまりの点鼻薬しかもらえなかったとも言っていた。その人の勝手な解釈では、花粉症などのアレルギー性の問題と、急な気温の高低差などに体がついて行けなくなっているからではないかと話していた。
 ぼくも自分の症状については、おおむね、同じようなことを思っている。それで市販の点鼻薬、風邪薬、頭痛薬などを交互に使用して、その場しのぎを続けている。こうなってくると、どうも自分のこれまでの人生の歩みと重なって感じられる。その場しのぎの対症療法を繰り返し、小さな苦楽や浮き沈みを繰り返してきた。そういう言い方で言えば、全治全快の時もなく、重症の時もなかったと言うことか。ただどちらかと言うと、不快な日が多かったかなという気がする。そしてそれは、自分だけのことかなと考えたこともあったが、いや、意外とそうでもないのだなと今は思う。いずれにしても、まあ体調管理に気をつけるという以外の特効薬は見当たらない。それぞれに気をつけて頑張っていきましょうという結論になりそうだ。


2025年5月29日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間考古学」です。

 昔、吉本隆明さんが解剖学者の三木成夫さんを絶賛する文章を読んで、「胎児の世界」や「ヒトのからだ−生物史的考察」などを読んだ。それまではほぼ小説や詩や批評など、文学書しか読まなかったと言ってよいくらいだったから、異世界のような気がして読むのに苦労した。しかし、三木さんの文体のせいなのだろうか、詳細は把握できないにしても、先へと読み進めさせる魅力に満ちていてどちらも程なく読み終えた。読み終えて、これはすごい世界だと直感し、何度か読み直していくうちに徐々に全体像がはっきりとしてくるような感じだった。そうなるとほかの著作も読んでみたいということになり、調べて分かった限りの市販の本を次々に購入して読むことになった。いわゆる一般に流通する書籍ではないから探すにも苦労したが、そもそもの流通する本としての著述は三木さんの場合は少なくて、知られる限りの本は手にして読んだ。
 とにかくびっくりした。
 例えば今、NHKなどで生命や人体に関しての特集がくわしく映像化されてそれを見ることが出来るようになっているけれども、その原型はほぼ三木さんの著作に著されていたとぼくは思っている。つまりそこでは、億単位の歳月を行ったり来たりする思考がなされているのである。

 生命とそれぞれの生物の成り立ちとには、さまざまな記録と物語とが隠されている。それを掘り起こして知ることも楽しいのは楽しいのだが、楽しむと言うよりも、それはもっと生きていく上での基礎として、知っておかなければならない知識のように思える。我々が、「自分」を意識する時に、たいていは意識上の自分という物を念頭に置いている。もっと言うと身体を除外し、捨象して自分というものを考えている。それは意識の自然だから悪くはないが、それだと自分の半分を指して自分の全体だと言っているようなもので、正確とは言えない。そうして身体については見た目の善し悪しなどに熱心なだけで、一生をその表面上のことだけですましている。自分のもっとも身近なところに、生命の進化の壮大な歴史の記録が、あたかももう一つのDNAのように埋もれていると言ってもよい。

 今日の作はそれらがヒントになって出来たものだが、いつものように出来上がったものは貧相なもので、ここで余計なことをいえば言うだけ惨めになるだけだ。だが、今日の出来損ないの作の世界とは別に、もう少し心と体の復興、復権を願って、そのことに思いをいたしてほしいと、無理にここに思うところを入れ込んでみたというわけである。


2025年5月28日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「社会の表層」です。

 今日は少し作品と言うよりもデッサン、あるいはもっと単純に線引きの練習という感じでやってみた。練習は練習なので、それ以外ではない。

 先週の20日から、表紙ページ下にある「掲示板」内で、nishiyanさんとの往復書簡みたいなやりとりがあります。自然な感じで始まったちょっとしたやりとりですが、今日はこれからぼくが書き込みをします。そちらの方もどうぞご覧になってください。nishiyanさんは毎日詩でもぼくの先輩で、自身のブログですでに10年を超えて今なお継続されている方です。また、遙か(?)50年前に「試行」に詩を寄稿していて、いわばぼくの先輩筋にあたる人です。ぼくとしては少し前を行く人というイメージで、走っているとずっと背中を目にしているという、そんな感じでいます。ぼくよりもアクティブでいろんな事を幅広くなされている方です。これまで何度もご紹介してきましたが、一応ここでもnishiyanさんのブログのアドレスを下記に貼り付けておきます。どうぞそちらの方もご覧ください。なお11月に現在のブログは終了するそうで、近づいた時点で移転先のお知らせがあるそうですからご留意ください。

nishiyanさんのブログアドレス  https://blog.goo.ne.jp/okdream01


2025年5月27日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「そして、だが、」です。

 明確な方向性として、墜ちて行くことを敢えて目指した生き方だったかも知れない。たどり着く場所は、生きる意味がない、生きる甲斐がない、そういう場所だったはずだ。村のいっとう外れの、小高い丘にこじんまりと設えられた墓所のような。
 ふと気づくと、ここは目的の場所だ。生きる甲斐がなく意味もないと、若やいで賑やかな喧噪の街々からすればそう見えるような生存の場所だ。
 何故墜ちてきたかは明白なのだ。繁栄に浮かれ、狂ったように乱舞する人間世界から一歩外に踏み出すと、そこには広大な非人間世界が広がっている。ふと後ろを振り返り、人間世界を眺めると、その卑小さが目に焼き付く。確かに人間世界はぼうっと大きく膨張し肥大して見えるのだが、そう見えるのは妄想が取り囲んでそう見せているだけで、実態はこじんまりとしてみすぼらしい世界に過ぎない。
 それよりも、甲斐もなく意味もない非人間世界の広大で重厚な世界は見るものを圧倒する。ぼくらはそれに立ち会って、そちらの世界を見ているのだ。
 生き甲斐だとか、生きる意味を持つとか、こちらの世界はそんなケチな魂胆で生きたり存在したりしていない。ここでは人間の世界が異数の世界であり、妄想に病んだ世界なのだ。ぼくらは人間なので、長くこちらに留まっていることは出来ない。いずれ人間世界に帰って行かなければならない。どのような考えで、どのような心で、帰って行くかはぼくら次第であり、またそれぞれである。

 ちょっとした小話の途中ですが、今日はここで中断します。


2025年5月26日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「名前の不思議」です。

 嫌いというのではないが、小さい頃から自分の名前に違和感を抱いていた。もう長いことこの名前をぶら下げて生きてきているのだから、すっかり馴染んでいていいはずである。けれども自分を表すときに、わざわざ自分の名前を持ち出すのは稀で、自分とか、ぼくとか、わたしと言っているし、またその方がしっくりする。自分は自分、ぼくはぼく。どうも命名された名前はとってつけたような感じで言うのも聞くのも気恥ずかしい。そのことを考えての今日の作である。
 他人を呼ぶときは名前で呼んでいるし、名前とその人物とを、一種融合した物のように違和感なしに了解している。それは理解していても、いざ自分の名前となると、違和感を感じてしまう。あまり深く考えたことがないので考えも深まらないが、深く考えたら奥行きは相当深いところまであるのかも知れない。が、そこまで行く気は今のところはない。


2025年5月25日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「社会を変える力」です。

 日本知性の第一人者のひとり、とぼくは思ってますけど、養老孟司さんがどこかで言ってました。冗談半分だと思いますけど、また大っぴらに言うと顰蹙を買うかも知れませんから、当人も周囲も当たり障りのないようにあつかって大事にはなっていません。でも半分は本気で言っていたと思います。
 今となっては、養老さんがホントに言ったかどうかはどうでもいいですね。先進の知性が、知性ではどうにもならん、地震が来てガチャガチャに破壊されたら変わるかも知らん、変わるだろう。半分冗談交じりにでも、そう言っているわけです。

 どうということもない言葉ですよ。自然に期待するという、それだけです。何気ないですけど、心に残っています。


2025年5月24日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「貧の履歴の中に」です。

 風邪の症状が長引いていると考えていたが、今日になって、これは肺炎の初期かも知れないと考えを変えた。
 そうだとすれば、よく寝る、水分をたくさんとる、栄養をとる、たばこを吸わない、などして回復を待てばよいことになる。なので、しばらくそんなふうに過ごそうと思っている。


2025年5月23日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「もうどうにもとまらない」です。

 ふざけたタイトルです。山本リンダです。年寄りなら誰でも知っていると思います。 まだ具合が悪くて、起きて更新する以外は伏せっています。今も胃が少しムカムカしていますね。まあでもまた横になれば回復に向かうと思います。
 お金も元気もなくて、やることに制限がかかります。毎日いい加減に言葉拾いをして、毎日それを面白いように並べているわけです。ただそれを繰り返しているだけの無策に過ぎませんが、ちょっと、何か、先の方がぼんやり明かりのように見えてきましてね。それは何かと言うとですね、ずっと先になるのでしょうが、もう出てくる言葉と書きとめる言葉とが、ピタッピタッと定着するというイメージ。そう言うのが先に見えて、そこまで行こうという考えになってます。要するに才能の開花ですね。もう出てくる言葉書きとめる言葉が、そのまま詩になっているというですね、妄想です。妄想のゾーンがすぐ先に見えます。
 日常の生活言葉が主です。簡単で短い言葉がいいです。ただそれを読むと、一気に世の中のことが分かり、何が正しいか、生きる指針にもなり、安心もする。そういう詩が汲めでも尽きぬ泉のように湧いて出てくるようになります。そうなると楽しいんですね。止められない、止まらない、「もうどうにもとまらない」ことになります。もう少しでそうなります。もうすぐです。そうですね、あと50年生きていれば、そういうことが実に簡単にできるようになります。皆さん一緒に長生きしましょう。長生きして、そうなったぼくの詩を確認してください。終わります。これからまた床に伏します。


2025年5月22日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「世界で最小の空き地」です。

 今日も体調がよくない。気分もよくない。この作業を終えたら少し横になってみよう。ぐっすりと寝て起きたら、何もかもよくなっているような気がする。


2025年5月21日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「声と言葉と心と問い」です。

 少し風邪気味で喉が痛かったりする。3日くらいだろうか。コロナ以降、風邪というとこれだ。そして喉の痛みから、鼻水、咳、それから熱へと移行する。そして一回りして徐々に収束に向かう。パターン化している。もう一つこれに加えると、あまり重症化しない。若いときは酷く寝込んだりしたこともあるのだが、老いてからは風邪の症状としてそこまで発展しない。変な言い方だが、病気の方も衰えているような気がする。風邪自体にそんな力がない。不思議だがそんな感じだ。

 冒頭一節には、ガザ地区の難民の声としてニュースの記事になっていたものを使わせてもらった。その声にどう対峙できるかというのがこの作を書く動機だが、なるべく普段着の言葉で書こうとしたものだ。受け止め方も発展のさせ方も取るに足りない所なのものかも知れないが、足場をどこに置くかは意識してやっているつもりだ。そこから価値ある言葉が紡ぎ出せなければ、何度でもやり直すことを繰り返せばよいと思う。まだまだ、まだまだ、だ。


2025年5月20日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「どこか悲しい」です。


2025年5月19日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生きた証」です。

 農業、漁業などの生産者が知恵をつけて、一斉に儲かる漁業、儲かる農業を目指したらどういうことになるのだろうか。またそれが世界的な規模で一斉に行われるようになったらどうなのか。そんなことを一人でこっそり妄想していると、恐ろしさを感じる。
 現在の物価の高騰のことを考えると、まだ無意識の統制ですんでいるが、これが意図的意識的に行われるようになったら、最終的には食料品を牛耳るものが世界の覇者となるような妄想にまで発展する。要するに、意図的、意識的な生産統制がなされ、自在に生産量をコントロール下に置くことが出来たら、これは無敵だ。この兆候は原油の生産国に現れているし、今般の米の価格の高止まりの現象の中にもかすかに感じ取ることが出来る。
 まさかそんなことがあるわけがないとか、人間はそんなことはしないとか、性善説で世界を見ることは出来ない。人間個々も、社会も、至る所で底が抜け始めている。
 経済的下層に生活する住人としては、自己防衛手段として、自給自足的な規模の耕作地がほしいなと思う。そこでわずかでも米や野菜を収穫できれば、少しでも生きていくための足しになるかも知れないからだ。
 一方で天気がよくて、お花畑が賑わい、日本各地でいろいろな祭りが開かれて、そこでは楽しさを実感し、浮かれたり感動したりといった生活が並行して行われていることも事実だ。ピンからキリまで言えば、重層し複合した世界が繰り広げられ、一緒くたに現在になだれ込んでいる。
 こういう混乱、混迷の時は、生活も思想も沈んでいくのがよい気がする。素朴でシンプルな初期に立ち返ることが必要だと思われる。同時に世界や社会への関心を持ち続けることだ。とりあえずぼくらはまだ言葉を紡げている。


2025年5月18日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「晩年のその先」です。

 朝起きて掃除洗濯をしていたら、雲が晴れて日も差し、あっという間の猛暑。自分の部屋に入るとエアコンがほしくなる。湿度が高そうで、疲れや眠気も感じる。そう言えば庭の花たちもきれいに咲いているが、まだそれほど目立たないが、至る所草の芽が吹き出している。今年の夏も思いやられる。きっとそうなるに違いない。

 今日の作にも関連するが、ここ数十年、ネガティブ志向が嫌われる。太宰治は「右大臣実朝」で、アカルサトハホロビノスガタデハナイカと言ってみせた。若い頃は我が意を得たりとその言葉にはまった。そのせいか、時代的にはまだ暗さを気取る人もたくさんいたのである。昨今は一転、絶滅危惧種に近い状態である。裏を返せば、本当に内面に暗さを抱えた人だけが暗い立ち振る舞いをしているということになる。
 さっきふと思ったのだが、似た言葉でポジティブとネガティブがある。現在の社会では極端にポジティブ志向がもてはやされているように思える。太宰のようにそれは滅びの姿だという勇気はないが、社会全体が一本方向の道に向かっているようでちょっと怖い。どうして、雰囲気としてネガティブ志向を否定しようと社会が働きかけているのか、理由みたいなものがよく分からない。ポジティブがあったらネガティブもある。それが健全な社会であり、世界である気がするのだがどうだろうか。安藤昌益なら二つで一つと即座に答えるだろうが、実社会の現象はたいていどちらかに偏る。現在は、明るい、ポジティブが極端に好まれ、広がりをみせている気がする。共同幻想の強化とも感じられる。ぼくはたぶん、劣勢の方の肩を持ちたいと考えているのだ。たいていそれは必ず負ける。いやそれって究極のネガティブ志向でしょう。


2025年5月17日

 お知らせがあります。

 このたび、このホームページが借りているサーバー元が事業を終了することになり、移転しなければならないことになりました。すでに移転先は決まっていて、下にそのアドレスを書いておきます。こちらは5月末までとし、6月1日からは下記のアドレスでご利用くださいますようお願いします。実際にはもうすでに移転先でも同じものが見られるようになっていますし、こちらも6月末までは続けて見られます。準備が出来たので、時期を繰り上げて6月1日からということにしました。今後ともよろしくお願いします。

  https://st835348.static.jp/  (コピーしてブラウザに貼り付けても可)


2025年5月17日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「書物の整理」です。

 活字が読み難くなったこともあり、整理しようという気になった。それをそのまま題材にして、浮かんだ思いや言葉をそのまま記してみた。何の芸もないことである。
 ただ、昨日、「底が抜ける」ということを書き、考えたりしたせいか、蔵書を始末すると言うことも、どこか自分の底が抜けることに通じるというような思いになった。
 それらの本に記された言葉や考え方というものは、少なからず自分の精神形成に関与してきたものであるはずである。読んでなにがしかを吸収した時点で、終わっているという考え方も出来るが、おそらくはまだ吸収し切れていないという負い目があるのであろう。手放しがたいという思いを長く抱いてきた。それはしかし、一笑に付されるべき感傷以上でも以外でもない。自分の頭でそういう稚拙な物語を編んでいるだけなのだ。
 整理を決めたら、臨時のゴミとして環境センターに持ち込むか、別途販路を調べてどこかに、誰かに買い取ってもらうかだ。寄贈するという手もあるが、喜んで引き取ってくれるというところを知らない。一番は必要とする人の手元に送ることだが、可能性としてはゼロに近い。最悪を考えるとほしがる人は誰もいないということになる。現実的にはそれが妥当な考え方だ。だから、売ろうとしても買う人がいないと言うことも十分にあり得る。そう考えつつ、しかし、やってみようという気になっている。もはや背に腹は代えられないという場に立っているという現実もある。
 とりあえずこれから主なものを整理し、一覧表を作ってみようと思う。話はそこからであるが、生来の怠け者であるからやりきれるかどうか分からない。できるだけ楽しみながらやれるように努力していきたい。


2025年5月16日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「底抜け筒抜け」です。

 社会全体に悪い意味での底抜け感が感じられて、まともに書いても仕方がないから、大いにふざけて書くことにしました。最後の方でアトムが出てきたのは、谷川俊太郎さんが亡くなったことがふと思い浮かんだので強引に入れ込みました。楽しんで書けたのですが、楽しんで書こうとする代償なのか、全体のできはもう一つという気がします。


2025年5月15日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「団地の庭の花水木」です。

 ぼくの記憶や印象では、宮城の仙北では「花水木」はあまりポピュラーな庭木、花木ではないと思っていた。だから棲んでいる団地内でも、その名を気にとめて探してみるということもなかった。だが、今年も最近になって、妻が、あちこちで「花水木」
が見られるんだってと言う。ちょっと気にかけて通りがけに家々の庭を見ると、これが結構の頻度で目に入ったのだった。
 えぇっ、去年までは考えもしなかった「花水木」の木が、団地内ではこんなにも見られるようになっていたとは。時期的に丁度花盛りで、あちこちでピンクや白の花を可憐に咲かせている。実は花と見えるのは変形した葉のようで、ネットで調べるとそんなことが書いてある。車中から見る分には小さなピンク系の花をたくさんつけているように見えるが、それは苞と呼ばれる特殊化した葉らしい。全体的には小さな桜のようにも見える。桜よりもちょっと可憐で繊細に見える。視力が衰えているので自信を持って伝えられないが、まあこんなところ。動画であったら「いいね」をチェックしているところだ。


2025年5月14日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「聞く耳持たぬ人たち」です。

 兵庫県知事の斉藤元彦やN国党の立花孝志のことが核心のところでずっと分からなくて、頭をひねっているところで、心的な体験として同じようなことが昔あったなあと思いだした。こちら側の思いや言葉が通じない、あるいは通用しない、そういう子どもに対したときの心的な体験がそれだ。そういう意味合いでどこか似ている。
 そこから始めてみたのだが、すんなり書けそうだったのに、一度書き終えそうになって、また後半部を書き直したりした。そこから少し迷走して、それが最後まで尾を引いている。


2025年5月13日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「〈引きこもり〉考」です。

 昔から孤独、孤立、また劣等感などにたくさん悩んできました。ぼく個人のことで言えば、それでも何とか社会の端っこにしがみついて国民の一人だ、一般の社会人だ、みたいな顔つきを作ってやってきました。けれどもやはり、今も孤独であるとか引きこもっているとか言う人のことを考えると、居ても立ってもいられない気持ちになります。自分はそういうところから半分抜け出して、刻苦勉励と言えるかどうか分かりませんが、まがりなりにも普通人としてやってきました。それでよかったのかどうか今でもよく分かりません。本当の孤独者、引きこもり者に比べたら、どこかずるいところがあって、本物の孤独者や引きこもり者では無かったのではないかという疑義があります。また、しかし、逆に、本物だったんだけれども、孤独や引きこもりから抜け出ることは自分の経験から言って、不可能ではないんだよと考えるところもあるのです。そうして、もしも、自分の宿命や運命のようなものから本当に脱却して、一変する道を歩きたいならば、ぼくの考え方生き方が、少しは参考になるかも知れないな、そんなことを思ったりもしているのです。
 ぼくもいろいろ揺れ動きはしてきたのですが、逆に、孤独や引きこもりを引き受け、徹底してそんな生き方を選択したってよかったんじゃないか、と言う考えを今では考えたりすることもあります。そこのところでは、少しも、孤独や引きこもりを可哀相とは思っていません。可哀相とか痛ましいとかという見方は、他の人たちはどうであろうと、ぼくはまったく思っていません。派手で賑やかに生きようが、地味に静かに生きようが、いずれも人間の選択や強いられる生の可能性と思っています。どちらが良いとか悪いとかでもないと考えます。ですからぼくみたいに身を捩るようにして半分逃げ出すやつもいるでしょうし、無抵抗にまっしぐらに行く人も居るのだと思います。それはもうそれぞれで、そこまで行くと、細胞の中のミトコンドリアの性質がちょっと違うのだくらいの、ぼくらにはわけが分からないくらいのことになって行くのかも知れないと思います。ただいずれにしても、可能性としての人間の生き方や在り方の範疇に留まるまでのもので、そこには同じ意味や価値があるんだとぼくは考えているわけです。もちろんこうした考えとはまったく無縁に、社会通念上の生き方についての常識的な考え方も厳然としてあるわけで、それを否定しようと思ってはいないのです。そして結果としては、最後はやっぱり当事者次第なんだと、無視無関心の立場とそれほど変わらないということになってしまいます。
 無責任な想像でしかないのですが、ふと「引きこもり村」みたいな村を作って、それぞれに引きこもりながらの、そして孤独な共同生活が出来ないかと夢想したりします。原始古代の生活から初めて、文明、文化をやり直すというようなことをです。ちょっと脳天気に飛躍しすぎましたね。


2025年5月12日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「せいぜいお気張りやす」です。

 学もないし普通一般の生活者に過ぎないが、この国の指導者たちはたいしたことが出来ていないということくらいは分かる。過疎や少子化をはじめ、この国の先行きの不安が一向に払拭されそうにないのが、社会全体からうかがわれるからだ。
 ここ数年、あるいはもっと長く数十年。この国にはある一定の指導層、指導者層が存在した。彼らは頭がよくて、その頭のよさを遺憾なく発揮できる位置にいたはずである。にもかかわらず、あまりよい結果は出していない。結果は出していないが、依然としてそういう地位にいて、そういう指導的役割を担っている。そして繰り返して言うが、担っているが結果は出していない。
 これからあとどれくらいの期間、同じことを続けるのだろうか。おそらく今のままでは、これまでと同様にきつい詰問にさらされなければ、ずっと続けていくことだろう。ぼくらが出来ることは茶化したり、皮肉を込めて罵倒するくらいのことだけだ。だからやる。恥ずかしさのあまり、いたたまれなくなるまで、やる。そういう気分の今日の作だ。


2025年5月11日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「縄文人のDNA」です。

 日本人のルーツを探ると、大きく縄文人と弥生人となるようです。弥生人というのはもともとは大陸から来た渡来人で、この地に定着し、先住の縄文人とも子どもを作りながら全土に広がっていったようです。大陸からの渡来人ですから文明的に上位にあって、島国の中にあって確実に勢力を広め、拡大したと思われます。
 それらの勢力が西日本において、いわゆる一応の統一的な国なるものを作りました。しかし、初期にはまだ、特に東北地方は勢力圏の外にあったようです。
 その頃の東北はいくつかの小国はあったかも知れませんが、まだ西日本に対抗するような国として統一されたものではなかったようです。小国や村落がバラバラに点在し、それらは互いに他を制圧しようとはせず、言ってみれば尊重し合っていたのかも知れません。
 西日本の統一を果たした勢力は、その後に東日本に向かっても勢力を広めようとしていきます。これが渡来人、弥生人のDNAではないかと思います。渡来人をルーツとする弥生人と縄文人と何が違うかと言えば、異部族との争いの経験値だと思います。大陸では争いが多く、そこで敗れて日本に逃れてきた渡来人もあったと聞きます。ですから弥生人、弥生系の集団は縄文系の集団に比べてすべての点で積極的で能動的だという気がします。ある意味でそれはひとつの美点だという気がします。集団として発展的だとも考えられます。
 じゃあ縄文系は弥生系に比べて劣っているのかというと、それはそうではないような気がぼくはします。生きることに対する違った価値観がある気がします。そこには対立と言うほどのことではないにしろ、異なる性質があるように思われます。
 ぼく自身は実際のDNAは別にして、自分を縄文系と見なしているところがあります。あるいは縄文系の方が好き、縄文系の良さというものをもっと表に取り出して知らしめたい。そんな気持ちを持っています。
 今日の作を振り返ると、こうした思いがあってのことかなと、今は考えるところではあります。


2025年5月10日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「でくのぼう」です。

 今日の作では高揚感がないことを言ってますけどね、ホントね、年を重ねると高揚感なんてだんだんなくなるよね。高揚感のない生命って,すなわち死である、そう言いたいくらいでね。
 毎日、生きてるんだか死んでるんだか分からないモヤモヤの境界の中を、さ迷っているというか、当てもなく歩いているというか、そんな感じ。
 坂を下っていくわけですからね。その先に大展望が待つわけでもない。
 今朝は雨が降っています。
 カーテンを開いた窓の先には、一面どんよりした雨雲が広がっています。これって人生なんですかね。老いた先の季節はずっと晴天続きかと思っていました。晴れませんねぇ、雨ですねぇ。そうか、老後は季節で表せば梅雨か。鬱陶しい。


2025年5月9日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不思議」です。

 家の中にいても顔や手だけは露出していて、それらの皮膚が時折このごろの季節の温もりを感じ取るようだ。寒くも暑くもなく、丁度というのでもなく、うっすらと、そして何となく温かいという信号を送ってくる。これは、季節が季節なだけに、衣服の調整と微妙に関係があるかも知れない。
 日によって直感的に今日は薄着にしようとか、逆に昨日寒く感じたから少し厚いものを着ようとか変えている。調整が上手くいっているときはたぶん暑さや寒さについて気にならないことになっているはずである。上手くいっていないときはどちらかになる。
 冬を越して春。となると、気持ち的に温かいとなる。温かいと思うから少し薄着になる。たぶんそのせいで、ぼくも4月の初めに風邪を引いた。
 そうやって毎年失敗する。何度も何度も繰り返したこの年になっても失敗する。こういうことにも学習しないという言葉は使えるだろうか。もちろんそういう情けなさも感じるけれども、もう一つ、これは年を重ねてきた分、「春」の言葉から励起される「温かい」が、素早く強くそして長くこころに起こるからではないか。「春」に対して膠着した「温かい」が、逆に感覚を鈍化させたりしないだろうか。
 だからといってどうだと言うことでもないのだが、最近は感覚にも思考にも不信が増していて、ひいては自己不信の度も増してきている。これはちょっと辛いところもあるのだが、致し方がないというところでもある。

〈お知らせ〉
 掲示板にnishiyanさんが「水詩(みずし) #14」を投稿してくれています。トップページの「掲示板」をクリックして、記事の番号147で見ることが出来ます。
 nishiyanさん、ありがとうございます。


2025年5月8日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「消えて行く日本」です。

 安倍晋三が首相の時、たしか「美しい日本」をキャッチフレーズとして使っていたように思います。最近首相になった石破茂は、それを真似してかどうか「楽しい日本」などと言っていました。こちらは安倍の「美しい日本」ほど、世間的に取り沙汰されていないという印象です。
 これらを真似たわけではないのですが、今日のタイトルは上記の通りです。なんかこれまでの日本とは違うなあという面を,一般生活者の視点で取り出してみたというわけです。下層から中層の下、または中までの階層の生活スタイルにおいて、此処に古来との大きな断絶が見られるんではないかというのが今日の視点です。
 これは自分たちでそうしてきたという面もあるだろうし、自然に無意識にそうなってきたという側面もあるという気がします。いずれにしてもそういう傾向に進み、今も進んでいる渦中だという気がします。当事者であるぼくらも初めてのことで、戸惑っています。戸惑って立ち尽くしたり、呆然としたりしているわけです。
 地方の団地生活が意味するもの。ぼくの思い過ごしかも知れないですけど、これって意外と大きな地殻変動じゃないかと思ったりもします。まだ全体像を把握しているのではないので、以後も少しばかり気にかけて見て行き、考えて行きたいなと思っています。


2025年5月7日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ほんとうらしさ」です。

 あまり好きではないが、勝ち組負け組ということばがある。子どもの時から、ほんとうのことや正しさというものは負け組の方にあると強く思い続けてきた。一般には逆と考えられているように思われるが、ぼくはそう思わずに来た。
 負け組、つまり社会的に下位にあるとか孤立しているとか、負の状況にあることは、一般には見えない価値や豊かさというものが、そこにたくさんあると考えている。そして、実は人間としての豊かさの宝庫はそちら側にあると思っている。また社会の底辺に生きているとか、孤立しているとか、負性を抱えたものは必ず正しく真なるものだという考え方をしている。
 こうしたことをひと言で表現するならば、「真なるものは必ず蹉跌する」と言うことばで言い表せるかと思う。このことばの細部を別にすれば、このことばは吉本隆明さんの詩の中にあったと記憶している。
 このことばを信ずるならば、「蹉跌したところに真あり」という考えが導かれる。そしてぼくはいまでも世の中を見る時に、そういう見方をして見ている。それを基軸に見ていくと大変分かりやすいし、そしてそれがほんとうであるとぼくは信じて疑わない。これは今はやりの言葉で言えば偏向と見なされるかも知れないが、一般に流布され拡散した見方考え方というものは、常識とは言えても常識が即真ということにはならない。真は数少ないところに隠れている。それが発見され世に広まれば常識となる。常識は一般化された真であって、常識となった時点で真を離脱する。


2025年5月6日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「五月のある日」です。

 同じ年格好の、つまり老人たちは毎日何を考えて暮らしているのかな。まあ普通一般の人はどうかというのは、ほんの時たま同級生の声を聞いたりすると分かるのだが、そうではなく、自分と少し似通った人たちはどうなのかというとなかなか伝わってこない。それで時々ぼくはこうですよと発信する。へぇそうなんだ位の反応があるといいのだが、それはない。発信自体が引きこもっているから仕方のないことだが、こちらとしてはこういう連帯の仕方もあると、つまりこれは希望的観測である。とにかくとにかく、頑張ろうぜと発信し、その発信を自分でも受け取ろうとする。老いの流儀のひとつではある。


2025年5月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不在の輪郭」です。

 むかし小川国夫という小説家がいました。50年ほど前よく作品を読んでいました。ぼくの印象では島尾敏雄さんの作風とは真逆で物的で、硬質的で、極力不必要なことばや文を省略したよい作品を書く人だなと思っていました。その文体に憧れもしました。
 思い出して、うわべだけ真似してみたのです。とてもとてもです。小川さんの、一字一句忽せにしない表現への向き合い方を思い知らされるだけです。趣味の詩人の趣味の作では到底真似できるものではありません。こちらがやっているのはチョチョイのチョイの仕上げですから。
 小川さんの文体と作品がなつかしくよみがえりました。
 ぼくも本当は、こんな気持ちを誰かと分かち合いたいとずっと思いながら、現実生活上は封印してきたんだなあって、思います。こんなことを含めて、本当に心の底、腹の底を割って話が出来たのは二十歳前後の期間だけです。それ以後は現実社会と渉り合うことに精一杯で、こころの奥底にしまい込まれたまんまです。まあ、そういうものだと思います。


2025年5月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言説の二次災害」です。

 作にもタイトルにも悩みましたが、最後はエイッ、ヤッ、です。念頭にあったのは兵庫県問題や立花孝志現象、それから日本の政治に絡む諸問題です。で、要は、「うるさい」というただその一事です。

 10日ほどまえの予報と違い、宮城富谷市の今週の気温予測は20度を下回っています。もっと暑くなる予報だったはずですが、少し前に変わっていました。かえって過ごしやすいと言えば過ごしやすい気温ですが、早くうだるような暑さの中で、暑い暑いと愚痴をこぼしたい気持ちも生じています。
 ゴールデンウィーク中ですから、もっとぱっと浮かれたいわけですが、天候も天候で、いつもと変わりない毎日になっています。浮かれているのはテレビ画面だけですね。少し前に大企業の初任給が35万円という話がありましたね。ぼくの年金は月18万前後から15万くらいに目減りして、いやあ大変です。物価も高いままだし、政府の対策は遅いしで、また選挙の話なんか出てて、まるで選挙が政治の眼目みたいになっちゃってる。うんざりです。税金の無駄遣いにしかなっていないんだから、選挙はやめちまえと思います。

 内田樹がユーチューブで天皇制について論じているようですね。ちらっと見てやめました。兵庫県問題についてもちょっと口を挟んでいる動画を見ましたが、そちらの方も面白くなかったです。文化の大衆化という状況の中で、波をコントロールするつもりで、ただ波の上に乗っかって流されているという印象です。名前の脇に哲学者とありましたが、偉い人なんだろうからわたしなどが批判できる業績の人ではないのでしょうが、つまんねぇなと思います。


2025年5月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ことばをなくすという夢」です。

 ヘンテコなタイトルで内容で、と言った今日の作です。
 自分の中には、ことばが「うるさい」という感受があるのでしょうね。いつも頭に湧いてきて、うんざりというところでしょうか。もう少しすると忘却症状が出てきて、アルツハイマーとか認知症とか、ことばが枯渇していくことが期待されます。そうしたらどんなにか心穏やかにいられるだろうかと、思わず胸が高鳴ります。実際はしかし、そうは行かないのでしょう。そうなるまえに不安が大きくなって、鬱っぽくなったりするのかも知れません。でもなんか、老いてことばを捨てていくと言うことは、ほんの少し憧れる所があります。
 まあそんな所を、今日の作は、自分なりに角度を変えてといいますか、少し変化球も使いながら表現してみたということになります。


2025年5月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間のする〈法〉は〈私法〉を出ない」です。

 合議、例えば3人以上のものが集まって協議をする。それは何をしているのかというと、いろいろな意見や考えをひとつにまとめる、そういうことをすると言うことだ。それはまたどういうことかというと、個々バラバラにある力をひとつにまとめるということでもある。
 一時的には、それは可能である。だがいったんまとまると永続的に続くものかというと、それがそうは行かない。諸般の事情により、合意はいつか必ず破綻する。なぜそうなるかというと、合意の時の条件となった要素が、時間や空間の移動により変化してしまうからである。あの時はああ言ったけれども、あれから事情が変わって、そうすることが出来なくなった、という類いのことである。これが例えば同人誌か何かだと、解散して終わりということになる。いろいろな組織が、やはり作られては解散したり崩壊したりと言うことは、これまた世の常である。
 永続する組織というものはない。これは国家についても言えるはずである。これはなかなかにしぶとい。幾度も解散の危機に瀕することもあるのだが、そのたびに上部だけが入れ替わり、組織全体としては途切れずに続く。日本の場合だと、2000年ほど続いていて、なぜ続いているかと言えば、これに代わっての受け皿がないからだ。とうに賞味期限切れ。あらゆることが劣化しているにもかかわらず、別に代わっていくことすら出来ずにいる。最近では1、2年という短期で政府政権は後退しているが、国としての枠組みは続いている。社会は混乱し、問題を山積みに抱えているらしいが、もう誰もきれいに解決できるなどとは考えていないようである。半分諦めかけていて、やる気も失っているようだ。もうどうやって崩壊するか、それを待っているだけのようにも見える。社会的な敗戦状態で崩壊状態でもあるのだが、あらゆるものがゾンビと化して、依然として従来通りと錯覚しているだけだ。憐れなことである。


2025年5月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「趣味の思想詩人のことば」です。

 世界のどこの国も経済的な発展を目指しているし、どの国の国民個々人もお金をたくさん持つことを望んでいるに違いない。五十年ちょっと前はまだ自由だ、平等だなどと口を開けば誰もが言っていたが、今ではずいぶん後退した。
 わたしたちの社会では、特殊詐欺とか詐欺メールとかが横行し、ずいぶん野蛮な手口の強盗騒ぎも毎日のようにニュースで伝えられている。ここ二、三十年と言えるだろうか、社会そのものが露骨に手を出して金、金と催促する、そんなおぞましい姿に変貌を遂げつつあるように感じられる。不気味だ。
 一方で、「美しい日本」、「楽しい日本」などと政治家は脳天気に言ってきた。そうやって上からペンキをぶっかけて,外装だけでもリフォームしたかったのだろうが、さすがに無理があった。国民の日々の実感と乖離がありすぎる。
 一応社会は社会としての流れがあって、そのなかでもぼくらはぼくらとして、自立的な生活を心がけたいと思うわけだ。社会とは別に、自分たちが価値あると思える所に向かって日々の生活を紡いで行きたい。まあ焦らずに、そういうところを努力して行きたい。


2025年4月30日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『贅沢』考」です。

 経済活動、これを食料獲得の活動と捉えると、精神活動というのは幻想創生また産出の活動のように考えることが出来る。経済生活が安定し、余剰が生まれるようになると、それが精神世界の発展・発達の原動力のように機能したと、ぼくは考える。
 知識・学問・芸術などはそうして生まれ、発達してきた。言ってみれば贅沢品だ。ぼくはそういう捉え方をする。人間を含めて動物一般を考えると、生きていく上で本来はそういう知識・学問・芸術などは必要が無い。それなしで十分に生きていくだけのことは出来る。なので、とりあえずここまでのことだけで言えば、精神世界は贅沢から出来た世界のように思える。そしてこれらの発達は王宮の存在なしには語れないという気がする。仮に発明や発見や創造が個人を単位として行われるとしても、個人の生活を支える庇護者や援助者なしに精神の活動に邁進することは出来なかったろうと思う。
 まあ今日はそれらのことが念頭にあって書き始めたのだが、あちこちに気が散ってスムーズに筆が進んだとは言えない。また何度も繰り返して挑むことになるのだろうと思う。少しずつでも精度が上がっていけば良いのだが。


2025年4月29日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老後の決意」です。

 書き始めも途中も、あまり乗らない感じでした。それでも書き出したので、ユーモア仕立てにしてごまかせないかと工夫しましたが、結局最後までどんよりしてしまいました。

 大阪で、大阪・関西万博が開かれていますけど、前回の大阪万博の時は19歳で、あるパビリオンでアルバイトしていましたね。数えると55年前ですよ。
 住友児童館と呼ぶ施設の入り口前で、発泡スチロールで作った樹木とか動物とかの中に入って客寄せをしていました。
 当時も主催者やその回りでは客を動員したくて手を変え品を変え、また宣伝、報道など、盛んにやったんだろうと思うけど、ぼくらのような従業員、アルバイトなどはそれほど浮かれてもいなかった気がします。あまり他の施設を巡ると言うことも無かったんじゃないかと思います。外側は騒いでいたけど中は意外と静かだった、そんな感じです。まあ、普通に仕事でしたからね。
 アルバイト仲間の男女数人がいてね。同じ年代でしたから、すぐに「男女?人物語」ですよ。そこだけは楽しかったです。みんなどうしているだろう。まだひとりひとりの顔が思い出せるね。なつかしいな。楽しかったな。


2025年4月28日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「詩人たちへの嫉妬を表白する」です。

 最近ある詩人が亡くなったことを伝え知り、その詩人や彼の詩に対しての嫉妬心と嫉妬から来る悪口みたいなものを表に出しておきたくなった。
 わたしの悪口は、つづめて言えば商業詩人に行き着くだけじゃないかという、すこぶる子どもっぽいものだ。詩としては適わないから何とか足払いでもしてやれという、すこぶる卑劣なものだ。たぶん誰もそんな品がなく、下劣なことを言わないだろうからと思い、わたしだけは言っておこうと思った。ある時から彼の詩は物理的にも読めなくなり、それを超えて彼の詩集に手を差し出して読もうともしなくなった。
 一応その詩人の名誉のために言っておくと、わたしの彼の詩に対しての抱く感情は、入念な読みや研究から来たというものでも何でも無い。自分の単に身勝手な想像とかイメージとかから来るもので、詩人の方には何らの責任もない。もっと言うと勝手なそのイメージを利用して、自分を語ろうとしただけとも言える。
 ここでこうしてまた言い訳している自分がいて、実に気分が不快さを増してきてもいるのでこれでやめる。


2025年4月27日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生活の質的向上」です。

 今日も酷い殴り書きとなりました。こちらの方は一向に質的な向上がありません。
生活も、このところ質的向上なんて考えたこともありません。何なら弥生に遡って、あぜ道に生えた草でも摘んで、野菜代わりにしようかなんて考えているくらいです。若く給料がたくさんの人はCM世界のささやきが心地よいのでしょうが、こちらはそうは行きません。世代間格差は現代人と縄文弥生くらいの大きな隔たりがある気がします。現代ですから今様でいいのですが、縄文や弥生風の生活も、まあ工夫次第ですかね、自然に近い暮らしを楽しんでもいいわけです。ぼくはやっぱりそこまでも余裕はありませんけど、状況によってはそれでもいいんじゃないかと考えます。分断、乖離はものすごく大きいですし、この傾向は当分続くと思います。贅沢だけが最上の道とは思えないけど、そう考えても仕方ないところがあります。出発点は大様の誕生でしょう。みながみな真似するようになりました。ぼくも昔、平成天皇の結婚式のパレードをテレビで見て、自分も天皇になりたいと思いましたもの。そうしたら何でも自由になり、また贅沢な暮らしが出来るんだろうなと想像しました。天才バカボンでした。


2025年4月26日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「今も継続する〈私法〉」です。

 こんなものを書いてどうなる、と思う。詩にもならず、論とも見えず、いったい何をやってるんだと自分でも思う。でも、言葉にしたい衝迫はある。
 1945から1970年代まで、国家論は盛んに行われた。日本にとっては敗戦がきっかけになっている。以後、経済的に発展を遂げるとともに、国家について考えることは下火になった。現在では表層としてはまったく問題とされない。この落差は酷い。問題が解決されて取り上げられなくなったのでは無い。問題の難しさと、これを考えたり問題にしても利益にも金にもならないから、誰も取り上げようとしなくなっただけだ。本当は依然として一般住民、一般の生活者大衆の現在や未来に大きな影響があるにもかかわらず、たぶん、この国でも一握りの者しか口にしなくなった。
 現在、国家についてのなにがしかを述べようとすると、それは技術論や運営論のような仕方でしか言われない。つまり国家ありきから始める論だ。もちろんそういう論もあっては良いが、わたしは国家のそもそも論に興味がある。そしてそこを探って行くと、日本においては吉本隆明の「共同幻想論」と、江戸時代の安藤昌益の自然世に対する「私法の世」という捉え方に突き当たる。
 国というものは、現在の行政サービスでも分かるように、安全安心のサービスを提供するから税金を出せというものだ。しかしながらこの仕組みは、行政周辺を上位に置き、それら上層に都合の良い仕組みになっていて、上層の生活の安定、富の蓄積に寄与するものになっている。苦しい時はまず下層が切り捨てられる。
 つまりトリックや奇策が満載で、そもそもが公正公平なシステムでも機関でも何でも無い。これをずっと不問にして、今も自由だ民主主義だと言いながら、少しも脱却できないでいるししようともしていない。その上に乗っかって自利のために既存の組織、機関を利用しようとすることに汲々としている。平民から国の指導層に取り立てるというような、昔の科挙の制度と変わり栄えしない学歴社会の受験体制などはその一例だ。これも一時騒がれたが、もう、そんな問題など無かったかのようにきれいさっぱり忘れられている。ニュースその他の報道でも「受験生頑張れ」なんて言っている。
 現在はだから、こんなことを問題にする機運では無い。だから、引きこもって、ここでぼそぼそ言うのである。ぼそぼそ言う分にはいくらでも言える。いくらでも言えるんだから、じゃあ、言ってやろうじゃないかということになる。だれが見なくても、聞かなくても、長年これでやってきている。喧嘩上等。無視上等。


2025年4月25日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「トコトコ歩いて去って行く」です。

 数日前に菜の花畑でちょっと有名な場所に行ってきました。一面に見渡す限りに菜の花が咲いていて、圧巻でした。その中を歩いて写真も撮ってと言うことでしたけど、宮沢賢治なんかだと、それこそディズニーランドに行ったくらいの感じで表現できるんだろうなあ、なんて思いました。
 相似形ってありますよね。同じ形の縮小や拡大の図。それも思います。世界の絶景地って写真やテレビで見ますが、それはそれはすごいものだと思います。ぼくはでもあんまり直接見たいと思わない方ですね。何か、近場のちょっとした良い景色とか変わった景色とか、それを拡大したり縮小したりして感じ、考えることで間に合わせてきました。それに想像力ですかね。あとはどんな景色も、忘れるしね。夢と違わないくらいになって行くし。でも、実際に実景を見る大事さって言うのは、それはそれであるように思います。


2025年4月24日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「トコトコ歩いて去って行く」です。

 書き始めて、書き進めて、書き終わると、人生と同じでやり直しが利かない。今のところそういうやり方をしているのでそうなっている。いつも不満は残り、それはたまりにたまっていくが、出来れば解消させつつ進みたいわけだ。でもまあ、いつまでたっても出来ない。無理みたいです。


2025年4月23日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「冷たい指先」です。

 現在兵庫県知事である斉藤元彦周辺に、この1年間興味を持ち続けてきた。権力を持ってはいけない人間が権力を持った。なぜ権力を持ってはいけないかというと、斉藤自身が人間としての底が抜けた状態の人物であり、彼が権力者として振る舞う時、必然的に周囲を底の抜けた状態に同化させてしまうからだ。
 こう言っても何のことか分からないと思う。
 社会通念上の理解からすれば斉藤元彦がどんな政治的人間かは、読売、朝日、毎日、産経、日経など、各新聞の社説や論評を見れば分かる。そこに書かれた内容が、現在のこの国の社会の通常の見識、見解を表している。つまり問題にならぬほどの低劣な知事で政治家であるという理解だ。もっと言えば、人間としても未熟で大きな欠陥を持った存在のように見なされたり扱われたりしている。

 社会生活の現在的な場所に自分を置いて考えた時に、わたしもまた、社会の良識派の考え方と同じ見解をとらざるを得ない。そして斉藤を初めとする知事の擁護派全体を愚かであると断罪して遠ざかり、縁なき衆生と切り捨てても来た。

 だが、待てよ、と、どこからともなく声が聞こえてくる。どこかで既視感といった気配が漂って感じられる。

 この社会、いや、この世界全体から「否」を突きつけられる構図は、自分の内的体験にそのまま同じではないのか。そんな思いがよぎる。

 わたしは社会の主流派、良識派とはどうしても同致出来ないところがあり、逆に言えばそれらから疎外されてきているということになる。言ってしまえば、そこのところでは、わたしはまったく斉藤元彦と同じ立ち位置にある。考え方から行動から何一つ似たところはないのだが、社会から浮いて、異質のもののように存在しているという点では同じ傾向を持つと言ってよい。
 わたしには悩ましいが、ここは知らぬふりで通過してはいけないのではないかという気がする。
 言ってみれば底の抜けた同士ということになる。いやいやながらそれを感じての今日の作である。また余計なことを抱えて考えなければならない。生活や政治の範疇と、人間性の範疇とは違う。この違いは別々に考えるべきであり、一緒くたにして考えてはならないとだけは今思っているところである。この先の考えはまた別の機会にということになる。


2025年4月22日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「桜は散るぞ」です。

 息を吐くように嘘をつくと言われる自称政治家がいますが、息を吐くように詩が書けるのはいいですね。今日もそんな感じで作っていますが、遊びとかユーモアとかが足りないなあと思いますね。もっと明るく軽快に、息を吐くように、言葉が詩になって出てくるといいなあ。と、思いました。


2025年4月21日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「まだその身を休ませるな」です。

 即興の自戒の歌になる。兵庫県知事を巡っての問題がなかなか決着を迎えず、良識派とゲリラ派、あるいはオールドメディア大パーソナルメディアの対立のように単純化して見てきた。最初の報道に接した時に、自分の中では問題として終わっている。本気を出せばもっと丁寧に解析しなければならないところだが、問題の本質としては自分にとっては脇道の問題のように見えたため、本気に調べたり考えたりしてみようとはならなかった。これまでにいくつかの小文を書いて、自分ではそこをさらって終わったと思っている。しかし、問題は依然として続いていて終焉を迎えていない。こちらでは終焉しているのに現実の方はまだ終焉しない。これが少し面白く、また気にかかっている。
 それは、司法の手に委ねられるということになるのかという疑問だ。以前だと、古くさいが道義的責任などの問題が浮上して、そこで裁定を下すことが出来た。それがそういう段階で処理できなくなってきた。そこが少し従来と違ってきていて、社会的機能の衰退のように思える。しゃかいがそのようにきのうしなくなった。これが現象として大きなことと見えて、ここからどう行くのか注視したいと関心を持った。見るだけになると思うが、最後の決着まで見ていきたいと考えている。


2025年4月20日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「意識の老い」です。

 最近はまた何を書くかについて迷っているようです。これは良くない傾向ですが、脱出できてないです。社会生活上で出くわす物事、出来事についてフラットな感性的な入出を刻めば、それで良いという気がしているのですが。どうも上手く機能していない、働いていない気がします。上手くいかないっす。精進、精進。


2025年4月19日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「世の中は変わらんようにして変わる」です。

 昨日は買い物に出かけ、道路脇の桜はみな満開。近くの富谷高校の校門脇の桜並木も見事でした。風が吹くとちょっとした桜吹雪でした。どこかで、チューリップも見かけました。春爛漫。今日は気温も上がって夏日の予報とか。
 気持ちはちょっと浮かれ気味になりますが、物価高のニュースがね、ざっと心に冷や水をかけてきます。今よりもっと簡素な食事にして耐えていかなければ。いやだなあ。
 こんな時政治や行政だけが頼みだが、給付金だとか減税だとかはっきりしない。税金を還付する形なんだけど、恒久的にやってほしいな。行政サービスのための組織や機関、また関係機関、団体などが肥大化しているからこれを縮小して財源に回していけば何とかならないかな。それらが大きくなってさらに人員も増して、税金でそれらを養っているようなもんだからな。その辺だけは悠々自適で倒産もないし、国民、県民へのサービスの充実など言いながら、実は自分らが充実している、安定しているという、わけの分からんことが大手を振って罷り通っている。ピンキリの天下りも充実してるしさ。そう言えばステルスでさ、つまり低空飛行に隠れてさ、教員の世界にもみみっちい天下りはあって、ただみみっちいから誰も話題にしないだけなんだ。官僚から自治体の職員まで、あげたらきりが無い。警察にもあるし。全体が持ちつ持たれつならいいが、下層や立場の低い者にはそれがないから、なんだかなあだよ。いつからこんなになっちまったのか。もとのもとを辿れば、やっぱり貧富、上下ができてからだな。相当昔で、小国が相争っていた当時からだろう。それ以前で歴史の進行を変えるいい策がなかったのだろうか。無かったんだろうなあ。


2025年4月18日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『まっとう』論」です。

 今日は少しはったりをかましてみた。そういう作になる。なので、書いた後の気分は少し良い。しかし、半分は本気のところがある。「まっとう」という言葉の意味と価値はずいぶんと廃れた感じがするが、埋もれさせてしまうには惜しい。もう、まっとうな世の中、まっとうな人間、という時の「まっとう」は何かが分からなくなってしまったが、まだ生き返らせることは可能ではないのか。「まっとう」という言葉が持つ力。少しでも復権させたいなと思う。

 昨日、天気も良く気温も高く、これは「花見」と思い立って車を走らせた。近辺には
二三十本ほどの桜並木が数カ所あり、このうちルート取りしやすい三カ所をハシゴした。それぞれ九分咲き、八分咲き、六分咲き程度の咲き具合で、見応えはあった。
ただ、一人で一回に三カ所のハシゴは初めてで、運転しながら、『なんだこれは。冥土の土産じゃあるまいし、焦ってるみたいじゃないか』などと思ったりした。
 このごろはあまり積極的に何かをやろうとする意欲がなくて、それでちょっと自分に仕掛けてみたという次第だが、まあ、まだ動けるなという実感はあったが、同時に欲望としての立ち上がりは薄いということも実感した。年を取るとはこういうことで、しかもこれと正面からこれと向き合うということになる。今日のことで言えば、「まっとう」に向き合えたら、それで良いかな、というところだ。


2025年4月17日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「何も見えない日」です。

 言葉遊びだけを繰り返して、ただ時間の朽ちて行くのを眺めている。そんな気がするのだが、それは良いことでも悪いことでもない。もったいないかというとそうでもない。つまらぬだけかというとそうでもない。それでは結構なことかというと、必ずしもそうではない。
 「今は動く時ではない」。マンガの侍大将の言葉である。動かぬまま時が経過し、侍大将は死んだ。
 そんなオチが見える。だからどうすると言うことではない。頭が勝手に話を作り、先へ進もうとする。素直に従うこともあれば従わないこともある。成るように成る。分からぬ時はかすかな風の動きに気を止める。動きが見えたら流れる方に行く。どうなろうとも、人間の枠組みの外に出ることはない。


2025年4月16日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「個性」です。

 個性というのは、分かりやすいところで言えば顔であり体つきだと言える。みんな唯一無二で、双子といえどもどこかに違いが出る。
 精神的な意味での個性というのは、身体のように具象的ではないのでなかなか難しい。表層のところで言うと、これもしかし、あの人はこんな人だとたやすく判別できるところもある。特に他人については、すぐに分かった気になって、こんな人だと思い込むものだ。ところが自分自身について考えると、これがよく分からない。
 ずいぶんと長い間考えてきたところで言うと、意識や精神的なところでの個性というのは、先ず無い。ほぼほぼ他人の意識や精神の寄せ集めで自分の意識や精神というものは出来ている。無垢ではないにしろ可塑的で、その源流や根源を辿ると無意識となってしまい、そうするとその領野での個性はないということになってしまう。
 身体と意識や精神の間に介在すると考えられるところでは、性格や性質というものがある。これは身体でもなければ精神そのものでもないが、それでいて両者に関係するある傾向のようなものを指す。これにはかろうじて個性が備わっているように見える。身体は同じものがない。精神的なものはほぼ他人の真似から形成される。性質とか性格的なものは、身体と精神との間に介在し、可塑性は無くもないのだが最終的にはその人固有のものがどうしても残ることになる。自分という人間を変えたい、性格を変えたい。そう考えていろいろ苦労してみても、結局は変えられない、変わらない。そこに性質とか性格とかの個性は露出して見えてくる。
 いろいろやったあげく、最後にこんなことが残ったな。それが自分かな。それが個性かな。今はそう考える。そんなところだ。


2025年4月15日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「底が抜けたので」です。

 朝晩の家の中は寒さが残り、まだファンヒーターなど使っています。さっき灯油を2缶買ってきました。団地内を車で回ると、数日前よりも家々の庭先は華やいだ雰囲気でした。あっという間にいろいろな草花が、花を開いたんだと思います。角を曲がったりするたびに、おや、黄色だ、白だ、ピンクだ、と気づいて驚きます。来週になればもっとそれぞれの庭は明るく花盛りになって、目と心とを和ませてくれるのだと思います。やっぱり春はいい季節です。


2025年4月14日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「命なりけり」です。

 正気とは思えないトランプの関税だけれど、すっと通るんですねえ、これが。もう核が落とされたかのようにわけが分からない感じですが、起きたものはしょうが無いので首をすくめて成り行きを見守るしかありません。
 一方で関西万博が始まったとか、ニュースが報じられていました。明るい話題も暗い話題もごっちゃになって進みますね。何となく殺人の話題も多く聞かれる気がするし、世の中は良くなってるのか悪くなっているのか、両方が一緒に進んでいるのか、またこんな時はどう考えどう生きていけばいいのか、誰か教えてほしいっす。
 晩年を迎え、静かに余生を、なんて考えていたのにそれどころじゃないっす。軌道修正したくても、いまいち元気が湧かない。南海トラフが不安視されているけれども、今進行しつつある社会不安はそれに匹敵する幻想上の地殻変動の前触れか、あるいは本震なのだろうか。もしくは個人的な妄想の類いなのか。風邪がちょっと完治しなくて、ここしばらく情緒が不安定気味で、その影響なのか自分でもよく分からない。
 今日は朝からやや強く雨が降り続けています。カーテンを開けても部屋の中はぼんやりと暗いです。桜はどうなるんだろう。雨上がりに満開の姿を見せるんだろうか。雨は3日続く予報。7分咲きの花がみんな散るのだろうか。最悪は来年を待てばいいだけだ。それくらいはまだ何とか待てるだろう。大丈夫だ。


2025年4月13日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「孤立死は最終表現」です。

 全国での孤立死が2万件を超えたと言われている。思ったよりも多いとか少ないとか、受け止めは様々な気がする。ぼくは始めに聞いた時は多いなと思い、しばらくして、そんなに多くもないかなと言う気になった。
 たぶん、これからしっかり統計をとっていこうと言うことだろうが、どうしてそうなるかというと市町村での対処がいろいろ難しいところがあるからなのだろうと思う。それから、これからこの数がぐっと増えて行くだろうと予想されるから、今のうちから考慮していこうと言うことに違いない。
 引きこもりは生前の、対社会への無言の態度表明だが、孤立死は死後のそれだ。
いずれも言葉無くするから、理解も解釈もまちまちになるが、問題を投げかけていることには違いない。社会の受け止め方によっては少子化などに見られたように、問題が拡大する方向に向くかそうでないかの岐路に立つと言うことになるかと思う。通常通りであれば拡大化の方に向き、また慌てふためくと言うことになるのだと思う。これによってまた社会は評判を落として行って、さらなる問題を生じさせる。
 社会的な問題の深刻度は日ごとに増していて、普通の感覚ではもううんざりして嫌になるはずだ。そういう厭世的な気分が慢性化して、さらに全体的に社会に対する厭世度を増して行く。これを根本から楽しく明るい社会、という方向に持ち直すことはとても難しいという気がする。どうにかしないと、だが、まだ誰にも名案が浮かばない、そういう在り方が続きそうな気配だ。


2025年4月12日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「後追い」です。

 余談になりますが、仮に、文学作品は意識的に作られたものと考えれば、作業過程は意識的な場だと言えるだろうか。今、一応、そう考えておくことにする。
 これに対するに、では、無意識の場とは何を指すかというと、それは現実社会、現実生活であると、ぼくならば言いたい。生きて生活をしていると言うことは、万人が万人とも意識的に振る舞っているに違いないのだが、それ故に個々人にとっては自分の意識や意志決定が中断され、疎外される場でもあると言える。そうなると少しも意識的な場であるとは言えない。意識や意志を持って現実に参加するが、それは普段に跳ね返される。
 ならばいっそのこと、現実とは無意識に生きる場であると、そう断定した方がいろいろな意味で楽だという気がする。また無意識の場ならば、無意識を持って参加してもいいじゃないかと思う。実際に、ある時期からそう考えて生きることにした。これはもう少し分かりやすく言えば、現実とは反射的に反応する場だと言うことだ。例えば現実の場で一度何かを発言すると、その場でのすぐの訂正は利くけれども、展開が次に進むともう取り返しがつかない。もう口にしたことは打ち消せない。現実とはそういう一期一会のところがある。それに比べて文学作品などは何度でも書き直すことが出来る。現実に生きる場ではそれが出来ない。一日たつと言い直しが利かない。言い訳が利かない。それを覚悟することが生きることである。これは厳しい反面、逆手にとることも出来る。やり直しが利かないのだから、その時はさっと諦める、中断する。後戻りするか別の脇道に入るか、そういうことである。つまりどこかでタイミング良く、どうでもいいスイッチ、いい加減スイッチを入れる、ということである。そんなふうに生きていいのだということである。そう考えるようになって少し楽になったところがある。なので生真面目で、堅苦しく生きている人にはお勧めしたい、ひとつの考え方の道筋である。


2025年4月11日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『一掃プラン』という妄想の歌」です。

 「一掃プラン」が発動された。そういう妄想を抱いた。それが今日の作になった。とりあえず書き上げてみると、トランプの関税引き上げのニュース。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
 下層に棲息するぼくらとすれば、これから当分の間は相当に生活が苦しくなることを覚悟しなければならないと思う。亀さんのように首と手足を引っ込めて、じっと耐えて行くしか方途がない。
 政府は焼け石に水のような、給付金の配布とか、減税とかの対策を検討し始めたという。決定までにはまた、数ヶ月を要するのだろう。
 ひとつの国や行政のサービスと言うことにもなるのだろうが、うんざりする。機構が大きくなりすぎて、小回りが利かない。そのことのためにもたくさんの委員会や決定の手続きなどを経ることになる。給付金に回す財源は、そんなところでも目減りする。
 高度経済成長からこの方、順調に成長を続けていくのは行政機関、組織じゃないかとずっと不満に思ってきた。市町村庁舎の建て替えなどを見てきて、すごくそうだと不満に感じてきた。片田舎のくせに、庁舎だけは豪勢になる。言い訳はひとつで、行政サービスの充実という一点だ。つい「いらねぇ」と口にしたくなるが、周囲の住民はどうなのか。やはりそれを必要とする人もいるのだろう。ありがたいと感謝する人もいるのだろう。そう思うと、口を閉じているより仕方ないと言うことになる。


2025年4月10日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間には責任が取れない時代」です。

 人間には責任が取れない時代に突入した、というのがぼくの見立てだ。
 気候変動などに表れた自然環境破壊。わたしたちの社会の、文明と文化の発展に費やすエネルギの大量消費に伴い、自然環境は変化を余儀なくされ、そうした変化は思いがけない災害を呼び込んだりしている。そうして最終的にはわたしたちの社会そのものを大きく変えていくところまで行き着くに違いないと思う。もちろんこれまでも人間は自然および外界に対してそういう働きかけを繰り返し発達してきたのであり、問題が生じてそれを発見するたびに是正策を講じると言うことを繰り返してきた。その運動はこれからも続くだろう。調整し、修正し、策を講じてさらなる発展を遂げる。
 これの限界が見えてきたと言うつもりはない。ただ、これはほぼ永久に続くのかと言うことと、その運動が異常な加速感を感じさせるようになったことで、不安になっているだけだ。
 ひとつだけ危惧を覚えるのは、こうして社会全体、世界全体が進んでいく時に、万一自然の摂理、法則がクラッシュして取り返しがつかない事態に陥った時に、人間は一体どうやって責任を取るんだろうと、ふと素朴な疑問を持った。そして、当然のことながら、誰ひとり責任を取る奴は出てこないだろうなと考えた。ただそれだけだ。ただそれだけが思い浮かんで、それは面白いなあとこっそり考えて、そうしていたら今日の作になった。それ以上のことは特にない。ちょっと無責任だなあと思うが、ぼくにはそれを止める力もなければ、声を出す勇気もない。ただ人間の無責任が自他共にはっきりとする、そういう時代に突入したのだなあと言うことだけは感じる。この先どうしていくべきだとか、こうしなければいけないとか、ぼくにはそういう考えはない。そしてそこのところでは、誰しもが無力であるというように思える。


2025年4月9日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「妄想の少子化考」です。

 少子化を考える時にある思い込みがあって、個人的には文明病のように思いなしている。
 生まれ育ちは東北の山間の小さな村で、ある意味で偏狭に近い土地柄だった。古い因習、昔気質の家父長的雰囲気も色濃く残っていた。物心ついた時はちょうど戦後経済の発展途上にあり、ラジオ・テレビを始め、文明・文化の波が辺境の地にまでおよんだ。人並みに異性を気にし始め、同時に自分の心の動きに違和感を覚えた。意識は変化する、ということに気づかされた。口をつく言葉と意識には齟齬があるというようなことをだ。自然な流れで文学にも興味を持った。
 戦後という時代に生まれていなければ、それよりずっと前の時代に生まれていれば、ぼくはきっと村のしきたりに従って、従順に、平凡な一生を一生懸命努力して送ったに違いないと思う。けれどもその頃の村社会はぼくらを繁栄の都市に、ぼくらのためだと考えて送り込もうとした。そこに選択の余地はなくて、、それが一定のコースだった。
 押し寄せる文明・文化の荒波の中を必死に泳ごうとする中で、自由とか個人主義とかの概念にもみくちゃにされた。自分を制度やしきたりの中に封じなければと考えていたところに、逆にそうしたものから自由になれと教えられることになった。
 少し話を端折って言えば、そうした意識とか自意識とかに対峙する時代の、文化的側面の入り口に立って、ぼくらはずいぶんと精神的な方向の時を必要としたのだ。
 さらに話を大きく端折って言えば、もうぼくらには結婚制度というようなものに自分を押し込めて、閉じ込めておくことは出来ないだろうなと感じていた。もちろん、この世界、この社会にあって、子どもを持ち、育てることも不可能だと考えた。何よりも、子どもが不幸になり、可哀想だと考えた。

 その後にぼくは考えを変えたわけだが、それは別にして、そう考えた経緯があるから、現在の少子化は自然な成り行きで至極もっともなことだと思うところがある。
 そうした意味合いから、ぼくらは少子化の問題が起こる端緒を生きた年代にあたっていて、多かれ少なかれ、みな問題意識だけは持っていたはずだと思う。そしてそれをうやむやに放置してきたから、その延長上に今日の少子化の問題が大きく取り上げられることになっているのだと考える。ぼくからすれば、誰でもこんな事態は予測できたはずなのに、社会的な繁栄ばかりを望んできての結果だと思えて、同世代も少し下の世代も、ずいぶんとカマトトぶっているなと思わずにいられない。一事が万事で、いろんなことが分かっていて、予測さえも出来たはずなのに、目を塞いで今日の社会の状況がある。いい加減知らぬふりは止めたら良かろうと思うが、結局は誰もが責任回避を企てていると言うことになる。メディアの向こうで胸を張る連中もみんなそうだから、本当に人間の中身はたいしたことがなくて大同小異なのだ。
 生きにくく、生活しづらくなるから、大声で罵倒したり、わざわざ喧嘩をふっかける必要もないが、心の中ではそういう連中を嘲ったり蔑んだりしておいた方が良い。何よりも自分たちの心の健康のためには必要だ。


2025年4月8日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「自己暗示」です。

 風邪症状がぱっとしなくて、自然、気分も上昇しない。脳裏に浮かんでくる言葉も暗めなところから離れがたくなっている。気分転換と思って、プチドライブをした。梅の花を見て、水仙に桜も見た。桜は木の本数としては一番多いのだが、花が咲いていたのはまだ2本ほどだ。ほかはみな蕾にも見えない中で、どうして満開に近く咲く花があるのか不思議だった。同じ連なりの同じ種なのにと、そう思った。
 家に戻ったらどっと疲れを感じた。深く強く咳き込みなどして、考えるよりも体はこたえているのだと思った。身体と意識にはずいぶんと距離があるのだ。


2025年4月7日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「令和のおぼっちゃまくんたち」です。

 国政の影に隠れるようにして、町政、市政、県政と好き勝手やってるなと言う気がする。特に都道府県レベルでは首長はすっかりお殿様気分で、権力の行使乱用が至る所にあると思える。全体の調整を知事や一部の幹部で行う仕組みだから、どうしたって偏りというのは出てくる。何なら初めから欠陥を持つ仕組みだ。

 数日前からの風邪が一向に改善しない。それに加えて地方行政の崩壊の現象や予兆を見聞きして、うんざりした。相変わらずで社会が良くなって行く兆しは一つも見えない。もう本当に馬鹿馬鹿しい。それならこっちだって馬鹿馬鹿しいことをやってやると言うことでの今日の作だ。小林よしのりの「おぼっちゃまくん」を思い出した。PTAなどから文句が出たほどに一世を風靡したギャグ漫画だ。下品だ、下劣だと批判もされた。まあぼくなんかの考えるところでは、そういう批判や非難をする側の方が、もっと下劣で下品なことを行っていると信じて疑わない。
 人間は権力を持っちゃいけないし、人間に権力を持たせても良くない。人は権力に群がる。今は子どもに権力を持たせたようになってしまっていて、権力の使い方がエグい。初めから資格のないような者たちが権力を手にするようになってきた。


2025年4月6日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間性の破産宣告」です。

 喉が痛い、体がだるい。今回の風邪はこんな症状で、市販の風邪薬を服用しているが思うように改善しない。昔だと休まずに仕事をして、そのうちに治っていた。仕事のことで頭を使うから、風邪を引いていることを忘れて、それが、結果、良かったのかも知れない。
 今は風邪の引き始めだと思うと、早く治ろうとしてすぐに薬を飲み、布団を敷いて一生懸命寝る。ずるずるそれを繰り返して、かえって回復が遅い。
 天候が良ければ外に出かけて、きれいな空気を胸いっぱい吸って、そして花などに目をとめて気分を変えるなどしたら、その方が余程治りが早くできるんじゃないかと思う。でも、考えるだけ。なかなか実行が伴わない。治ったらきっと桜満開だから、その時は妻と一緒に桜を見に行こう。


2025年4月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「面白い見世物」です。

 4月に入ってから風邪を引いてしまい、喉が痛くて参ってます。早く切り上げて、横になることだけ考えてます。

 月初めのnishiyanさんからの投稿が今回も頂いていて、掲示板の方に掲載されていますので、そちらの方もご覧ください。


2025年4月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「辺境からの疑義」です。

 日本の成立時期を考えると、初期日本はほとんど西日本だけで出来上がっている。そしてそれは、渡来人や帰化人を系譜に持った人たちの働きが寄与することによって成されてものと考えることが出来る。
 おそらく、この島国のどこかに、渡来人や帰化人にとって定住しやすい地域や場所があった。彼らはそこに住み着きながら、さらに故郷である大陸との交通も交流も途絶えさせずに行った。そのために大陸の新しい技術や文化をもいち早く取り入れることが出来た。それによって発展もあり、古くからの島国の住民に対してもある種の権限や権威を持ち得たに違いない。平たく言えば、驚かれたり尊敬されたりというようにだ。

 こう言うのはまるっきりの空想なので、ただ面白くて考えたり書き記してみたりと言うことを、ひとりでしている。要はひとり遊びなので、読ませられるひとにとってはたまったものではないかも知れない。今日は、そういう作です。


2025年4月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「物価高騰の腹立ちを歌う」です。

 軒並みの物価高騰。米の高騰もこれに含まれるが、米不足からの高止まりの内実がよく分からない。食料品の高騰は死活問題で、きっかけはウクライナとロシアの戦争に始まると思うけれども、それの影響ばかりではなさそうな気がする。得体が知れないと同時に、それだからこそ長引きそうな気もする。
 SNSと兵庫県問題の絡みの問題と併せて考えると、どこか社会倫理上のボトムダウンが起こっていて、全体にその影響があるのではないかと考える。
 戦争がそうだったけれども、当時は「まさか」と思う出来事であり、その「まさか」
がいろんなところに波及してきているという気がするのだ。社会通念上、あるいは社会倫理上の基盤、地盤が音を立てて崩落して行く感じ。根拠のない危惧に過ぎなければよいのだが、ちょっと不安だ。
 プーチンがやったこと。アメリカはトランプがやろうとしていること。いずれも穏当なやり方とは思えない。それが大衆の支持を得てしまうという不穏。そうしたことは同時にヨーロッパの陥没を印象づける。中国のただいまの静けさ、抑制気味な様子というのも気になる。さらに目の前の生活の閉塞感も待ったなしだ。耳目をそばだてたいところだが、自分の非力さではどうしようもない。だが、考えていかなければ。


2025年4月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「幻想の潰し合い」です。

 兵庫県知事問題を見ていると、社会通念上の正統的な見解、見識と、異端との戦いのように見える。例えば百条委員会や第三者委員会の報告が出されたら、これまでの良識、常識からすれば、そこで勝負がついたとなるはずである。
 ところが斉藤知事も知事を擁護する連中も、百条委員会や第三者委員会の結果報告を無視したり、委員会自体や調査の仕方にクレームをつけ、無効であるかのように喧伝することを止めようとしない。
 これほどまでに未練がましく、諦め悪く、権力の座にしがみつく例をあまり見た覚えがない。騒ぎが大きくなるにつれ、たいていは恥ずかしくなって身を引くというのがこれまでの通例である。
 傍観者なので面白いなあと見ているだけなのだが、さらに面白いと感じるのは、こうした知事側の抵抗に対して、オーソドックスに知事の非を咎めようとしてきた反対派が、これ以上の手を打ち出せずに戸惑っている現状である。
 知事側の悪あがきは度を超えている。にもかかわらず、度を超えた悪あがきに対して、戸惑いこそすれ、反対派は有効な手立てを打ち出せない。もう手札がないと、そんな様子でいる。傍観者のぼくにはこれが面白く映じた。

 こういう泥臭い諦めの悪さみたいなものには、ある既視感のようなものがあって、これを考えていると、島尾敏雄の小説だと思い当たった。確かに島尾の小説には目を背けたくなるような状況が描かれていた。
 深読みすると、兵庫県政のここまでの顛末にも、そうして深読みできる部分は微小だけれどもたくさんある気がする。拡大鏡で覗けば、いろんな重層する問題も見えてくるのだろう。だが、そこまで付き合う気力は、今のぼくにはありそうもない。ここまでの成り行きから行くところまで行って終わりとなるに違いないが、まあそのことにたいした意味はないだろうと考える。


2025年4月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「少子化の道」です。

 昭和26年の生まれなので、敗戦から6年後になります。宮城県は北部、岩手県境の山村で幼少期を過ごしました。3、4歳位の写真では、明治の初期を思わせるような着物姿で、草鞋のようなものを履いて近所の子らと写っていました。
 小学校の一年生入学時は、制服のようなものを着て、学生帽を被っていましたから、一気に洋風化が進んだんだと思います。ズック靴と呼ぶ靴も履いていたような気がしますが、記憶には「短靴(たんぐつ)」と呼んだゴム製の靴が鮮明に記憶されていて、ただそれはいつどんな時に使ったのか思い出せません。学校の上靴として履いたのかなあと思いますが、その後定番となったバレーシューズの記憶もあって、その辺はうやむやです。

 両親は戦前生まれですから、ぼくらよりも一代にしてめまぐるしい文化と文明の変遷を体験したんだと思います。間には戦争体験もあります。
 ぼくらは両親ほどではないですが、それでも子ども時代から今日まで、様々な変化の渦の中をくぐり抜けてきました。ぼくらより遅れてきた世代との違いは、上記した幼少期が一番の大きな違いだと思います。ぼくの感覚では、記憶している限りでの幼少期の地元の風土には、江戸や明治・大正のころの風土に地続きのところが多分に残っていたという気がします。雰囲気とか匂いとか、、底流では継承されていたという気がします。それはしかし、しばらくすると跡形もなく現代化の地平に均されて行ったという気がしています。そこはだからものすごく目まぐるしく変わったと、振り返ってみるとそんな印象です。一代にして数世代分の変化を体験した、振り返ってみると、そんな印象なのです。すさまじい文明と文化の発展。その渦中をくぐり抜けてきたという気がします。
 端的に言うと、生活全般が向上したと言うことになりましょう。そしてそれはよかったわけです。それは両親を始め、ぼくらよりも前の世代の人々のおかげなわけです。ただ、繁栄の中を時代とともに走り続けてきた中で、様々な社会的問題が生じたり、またぼくらの世代が直面した学生運動というものもあったりしたのです。陰と陽と言いますか、繁栄の裏には歪みがあるというか、そういうことにも気づかされてきました。人間社会というものは一筋縄ではいかないと言うことです。
 過疎化や少子化。人生の晩年を迎えて、このような社会の根源的な諸問題を目の前にしたりしています。もちろんほかにもいろんな問題を見聞きします。
 繁栄の裏にこんな問題があるよ。危ないよ。折々にそういうことを提言、提案しようと努めてきたつもりですが、もちろん今もその思いに変わりはないのですが、意味もないことを続けてきたということははっきりしています。これはしかし、今さら変えるというわけにはいかないようで、又やり得てもあと少し。このまま延長していくと言うことになるのだと思います。

 今日の作も、つまるところ、なんとなく社会全体でよいと思われる方向に進むことは危ないよ。落とし穴が待ってるよ。そう、警鐘めいたことを告げているだけです。こう行くのがいいよ、正しいよ、ということまでは言えていないのです。いつか言えたらなと、そのことだけのために続けている。そんなところかも知れません。