2026年8月11日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「傍観」です。

○ 洗濯は室内干しで、洗濯後にもう一度脱水をかけた。それから一階を掃除して、朝に使った食器も洗った。
 なんか後ろめたさがあって、そんなことをしてから二階に上がり、パソコンを立ち上げて文字を打ち込み始める。考えることも書くことも趣味だから、言ってしまえば遊びだ。一日の大半は遊んでいるのだから、なんだか申し訳ない気が少しする。なので、言われる前に少々の家事をして、それからすーっと二階の部屋に入って閉じこもる。

 考えることも書くことも、大学に入ってからの読書やそこからいろいろ考えたことが現在にまで影響している。大学の学科の勉強は何一つせずに、小説や思想書のようなものを読みあさっていた。その時の宿題というか、答え合わせのようなものをずっと続けてきている気がする。社会に役立つとか他人のためになるとかというのではないので、それも何かちょっと後ろめたい。自分の興味、関心のあるところだけを、何か建物の間をすり抜けるように通ってきたので、それもちょっとずるい気がしている。でもそう言うようにしてしか歩いてこれなかった。仕事は生存のために。趣味は心や精神のために。それがぼくのスタイルで現在まで続いている。趣味は自分のためのもので、だからぼくの書くことや考えることは自分のためのものだ。何か意味があるかどうかは関係がない。そういうことで言えばこうしたぼくの営為は意味がない。そうしてまた反対に、意味がないことをやり続けていると言うことには大きな意味があるとも考えている。それは他に向かって言うことではないが、なかなかやり続けられることではないと考えてもいる。それをやらせてもらえている訳だから、周囲の人たちには感謝の気持ちしかない。何か恩返しをしたいところだが、何一つ出来ないで来たと思っている。


2026年8月10日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「最後の夢」です。

○ YouTubeを見ていたら、卓球の張本兄妹がそろって世界大会で優勝というテロップ、サムネなどが見えた。
 高校生の時に卓球をやったもので、時々動画でも卓球を見ている。男子の試合は球の威力から何から段違いで、逆に面白くない。ついて行けないのだ。女子の場合はやっとついて行けるレベル。でも、世界大会となると、ぼくらの高校時代の男子のレベルをすでに遠く超えている。
 張本妹の直近の試合を見ていると、まず体感が凄いと思った。長年トップに君臨してきた中国の選手に引けを取らない。互いに返球し合う高速ラリーの応酬の中で、一瞬の隙を突くように速い球を捕りにくいコースに打ち返し一点をもぎ取る。そうして相手よりも少しだけ高い確率で点数を積み重ねて行く。それが中国選手以上になっている。
 福原愛ちゃんから始まり、石川佳純選手、その後に続いた平野美宇、伊藤美誠、早田ひな、の3選手は日本女子卓球を牽引してきた。その功績は大きいが、確実に中国を打ち破る力はまだなかった。時々フロックのように勝つくらいだった。
 でも今回の張本妹の試合を見ると、総合的に言っても同レベルかそれ以上に成長して見える。中国女子卓球の現在の絶対女王は孫穎莎だが、今回の大会には参加しておらず、次に対戦した時には互角に戦えるんじゃないかなと思う。

 18歳でこれだけのレベルに達したというのは驚きだ。まだ現役の上記3選手は今以上の力を付けるというのは難しそうで、張本を筆頭に若手のレベルも向上しているから苦戦して行きそうである。まだはっきりと世代交代とまでは行かないかも知れないが、張本妹の活躍に刺激され、ますます若手が力を付けていきそうに見える。

 さて、スポーツでは最近野球の大谷、またサッカーの盛り上がりなど、ぼくらが若かった頃には考えられない展開が次々と起き続けている。何かひとつのことに熱中すると、日本人も世界に伍して活躍出来るのだなあと思うこの頃だ。
 今のところ領域的にはスポーツ界が顕著だが、文化的、特に世界思想を牽引する人も出てきて欲しいなと、つい無い物ねだりを考えてしまう。スポーツほどに、打ち込むというような環境にはないのかも知れないが、ひ弱な日本人もずいぶん逞しくなったのだから、頭の方でも逞しくならなくちゃと思う。ぼくらは底辺なんだけれども、底辺から底上げしなくちゃね。頑張りましょう。


2026年8月9日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「壊れるまでは」です。

○ 障害考

 精神の障害と身体の障害とがあります。どちらにも、ある痛ましさみたいな感じを持つことがあります。その感じはおそらく、自分が健常であることを前提にしていることで抱く感情、感覚ではないかと思います。しかし、その前提は正しいのだろうか。こちらは本当に健常、正常なのだろうか。
 この場合の物差しは時代が提供するものです。時代が健常であるか否かを決めていると思います。正常や異常についても同じです。
 時代が違うと受け止め方は違います。そうすると、今の痛ましいと感ずる感じ方や考えというものも変わる可能性があると言うことになると思います。

 結論から先に言いますと、痛ましい障害とか、病的であるとか、異常であるという捉え方というものは、ちょっと違うという気がします。現代社会では、そう見なすと言うことだけのような気がします。いろいろな通念、俗念を引き剥がすと、そこに人間がいると言うだけになると思います。

 こう言っても何のことか分からないと思いますが。

 現代の高度文明化社会では、子どもたちにはたくさんの発達障害の診断がされるようになってきています。しかし、少なくともぼくらの子どもの頃にはそれらの病名もなく、手のかかる子ども、あるいは世話の焼ける子どもくらいの感じで一緒に暮らしていました。もっと時代を遡ると、障害や異常と見る見方もなくて、現実にある多様性、それがすなわち人間であり、人間社会だと包括的に捉えられていたのではないかという気がします。もっと太古には、神がかっていると捉えられていた時期もあったと聞いています。

 以前、解剖学者の三木成夫さんの本で、奇形と言うことを考えた文章の中に、たいていは進化の過程のどの段階かで発達が止まってしまった状態なのだということが言われていました。例えば、心臓が人間の心臓にまで発達せず、魚類の段階で止まってしまうと言うことが時折あるのだそうです。それを指して心臓の奇形と言ったりするのですが、何の根拠もない変な形と言うことでは全然なくて、人間の心臓も、魚類、両生類と進化に沿って形作られて行くべきところを、遺伝子情報のバグか何かによって完成に至らぬ事があるということです。
 蛇足になりますが、三木成夫さんは『胎児の世界』という新書本で、胎児は初期に魚類から両生類、は虫類、哺乳類と、脊椎動物の進化の過程を数日のうちに通り過ぎると述べています。それは相貌の変化からも、身体における器官や血管や神経の配置や発達から見てもそう言えると言っています。
 ぼくらはそこをくぐり抜けて誕生する訳ですが、差異ある設計図のDNAのもとに、全体としては同じ過程を通過するらしいのです。
 あの人は目と目の感覚が広くて、どこか両生類の面影がある。あの人はなんとなく、は虫類に似ている。ぼくらは日常そう感じることがありますが、それはまったく根拠が無いことではなくて、顔の製造過程にもそれぞれに差異があり、場合によっては過去の設計図がそのまま使われていたりと言うことがあるようです。

 いずれにせよ、そのように丁寧に見て、考えていきますと、奇形すなわち異常な形と言うことではなくて、何かの理由でその器官だけ進化発達が途中で止まったんだと言うことが分かったりします。奇形と言っても、実際には過去のどこかにあった形の再現と言うことらしいのです。そしてそういうことが分かると、見方、考え方が変わってきます。もちろん心臓だけではなく、いろんな箇所でそういうことが起きる可能性があると言うことになります。そういう身体的なことは比較的分かりやすいのですが、脳とか精神の問題とかになってくると、もっと複雑で分りにくくなるような気がします。そしてまだまだぼくらはそういうことがよく分からないんだよなあと思います。


2026年8月8日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「頭社会」です。

○ ぼくらは国というものに弱い。なので国の式典というものにも弱い。現在のありとあらゆる式典の形式は、日本国のはじめの式典を継承するもので、変形し亜種となった言わば子孫である。いずれの式典の上空にも「国」が浮かんでいて、主催者も参加者も意識的無意識的にその「国」に深く頭を垂れている。天でもなければ自然でもない。深く頭を垂れるのは、「国」に向かってそうしている。

 この国もそうだが、国とは天が造ったものでも自然が配置したものでもなく、人たちの中の勢力を持った集団によって造られ、制定されたものだ。それが単に、天の命(めい)、神の命(めい)のように装い、天や神に代わって権力の座(王位)についたと正当化したかっただけに過ぎない。つまり悪く言うと、ペテンが行われたと言うことだ。後はもう信じるもよし、信じないでもよしと言うことで各々の判断になる。

 ぼくは昔小学校の先生をしていた時に、いろんな式の司会進行をした。その際にいつも当惑したのは式を始める時の全体の「礼」の処理である。何に向かって礼をするのかと言うことである。ぼくの場合は、慣習としてそうなっていたからそれを踏襲した。だが本当は何に向かって礼をするのかよく分かっていなかったし、これをあらためて誰かに聞くことも恥ずかしい気がしてしなかった。会場のステージの正面には国旗や町旗、また演台の脇には校旗が飾られるのが一般的である。漠然とそれらに向かって礼をする。それの最も上位の式典と言えば、天皇が臨席する式典と言うことになり、さらに言えば天皇の即位式などが原点になりそうな気がする。つまりその形が、現在の下々にまで伝承、継承されているのだろうと思う。それは形だけだ。形だけを真似て、その実際は明示されない。この明示しないことによる効果。日本人は外国人にはわかりにくいこの手法をよく使う。まさしくこれがこの国の伝家の宝刀である。

 さて、これくらいのことを言えばぼくの気は収まる訳で、これ以上細かいことまでを言うと、差し障りが出ないとも限らない。なのでこれくらいでやめるが、要は中身のないただの慣習、形式だよと言うことである。そしてただの慣習、形式なのだが、中にはここに気持ちと思いとを込めたい人も居て、そういう人たちはおそらく式典の会場の上に「国」を置いて礼をしているに違いないのである。そうしてその礼はたいてい美しい。だがぼくからすれば同時に空虚である。

○ 大手企業の、今年夏のボーナス平均妥結結果が前年比7.04%増の104万2537円というネットの記事を見ました。一方、中小企業、零細企業では低く、10倍以上の差があるとも言われています。
 前から感じていましたけれど、格差がさらに広がっていると言うことですね。景気がいいところも確かにあるが、それ以上に伸び悩むところが多いと言うことのようです。
 ぼくらの実感としては高止まりの物価の中で、最低限の生活を保っていくことに必死です。まさに瀕死の生活という感じ。これが毎日ですから、島尾敏雄の病棟での生活のように「ああ」と叫び狂いたくもなります。忍耐勝負、我慢勝負です。
 政府、国会は消費税どうのこうの言いますが、ぼくらはとっくにそれどころではなくなってますから。そう言うのは焼け石に水くらいにしか思えていないです。そんなこすっチョロい対策でどうにかなるような次元では無いところにあると思ってます。一方で好景気の大企業がありますから、政治はそちらにすり寄ってつじつまを合わせようとするでしょう。ぼんくらと無能でどうしようもありません。期待できることなどみじんもないです。いやあほんとに、夢も希望もないとはこのことです。自衛、自衛、自衛です。皆さんご自愛を。


2026年8月7日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「幻想の中を駆け抜ける」です。

○ 昨日から仙台七夕祭が行われています。8月の6、7、8と続きます。東北の夏の風物詩のひとつですが、ぼくはほとんど見に行ったり参加したりと言うことがありません。東北の他県の祭りにも関心はありますが縁がないです。
 どう言いますか、風情を楽しむ余裕のない男で、つまらない人間です。そうとしか考えようも、言いようもないなあと思います。特に祭りが一番似合わない男で、そして人間だと思います。
 まあ、しかし、そのことに負い目を感じたりしている訳でもないのです。何か機会なり環境が上手い具合にあったりすれば、祭りの中心で活発に動き回る祭り人のように振る舞っただろうと考えるからです。
 昔は、ですけれども、必要な時には飲み会の場を盛り上げる役割を引き受け、実際に場を盛り上げると言うこともしてきましたから。

 人間がやることはどんなことだって他の人にもやれる。ぼくは固くそう信じています。だいたいが入れ替え可能だと思っています。あの人にやれることは自分にも出来る。自分に出来ることはあの人にもやれる。そう思っています。ただし条件がありますよ。他からは何も条件を付けないということと、逆に自分からの条件は全て可とする条件があれば、たいていのことは人間は出来るものです。うーん、例えば東大を受験して合格すること。これには何年かかってもいいという、期限を付けないことや、受験勉強だけに集中できる生活環境が持てること、講師を何人でも雇えることなどがあれば可能になると思います。これならどんなにぼくがあんぽんたんでも5年、10年かけて東大受験に合格すると思います。つまり、こういう考え方をすると何でも可能だと言うことになります。ベースにこういう考え方を置くと、できる、と言うことになります。
 もちろん実際、現実的にはできない方が多いのです。ですが論理の組み替え方次第で可能になります。そうすると原理的には可能だと言うことになります。原理的に可能なら、可能だと言ってよいことになると思います。ですからぼくと同じ後期高齢者の皆さんも、何でも諦める必要はないと思いますよ。やるっきゃないでしょ。


2026年8月6日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言葉の後期高齢」です。

○ 「原爆の日」広島平和記念式典

 81回目の「原爆の日」で、NHKでは平和記念式典を中継しています。ぼくは熱心に視聴する方ではありません。ただふつう一般の人と同じで、心の中だけで、世界の平和を願うくらいです。
 戦争反対、原爆廃棄などを求めて日本中が81回目の祈り、また宣言を繰り返し行ってきました。それでも世界では核の脅威がなくなりませんし、今また戦争も起きて継続しています。
 子どもたちが幼いうちに、あるいは分別がつくようになった時、この事実を知ればやはりこの世界は怖いものだと感じ、考えるでしょう。ぼくらもそうでした。ぼくの場合はこの事実を本当に受け止めることが出来たのは二十歳前くらいで遅かった方だと思います。でもこのことを自分なりに把握して受け止めてから、今日に至るまでずっと生存のテーマのひとつとなって継続してきたという気がします。と言うよりも、頭から去らなかったという方が正確かも知れません。つまり、大変難しく、かつ大きな問題として立ちはだかるものでした。これは今の子どもたち、若者たちにとっても同じではないかなと思います。そうした事実に関心を持とうが持つまいが、事実は心の深層に沈み込む重さを持つものであって、おそらくこれから誰も逃れられるものではないと思います。
 ぼくらがこの事実から自由になるには、原爆の廃棄、世界平和が本当に実現されて、「むかしむかし」のお話として語られるくらいにならないと無理でしょう。そうならなければ、本当の意味で少子化が止まることもないだろうとぼくは思います。歴史の傷は知らず知らずにぼくらの傷になります。ぼくらの選択は、傷ついた心の選択でもあります。この世界は、子どもが誕生するに値する世界なのかどうか。深層において、個々人が判断しているものと思います。


○ 「平等」について

 ぼくが生涯、何を考えてきたのかを一言にまとめて言うと、「平等」について、そしてそれをどう実現するかということだったと思います。そしてぼくがやってきたことは何の力にもならず、たわいもないことに過ぎなかったと思います。しかしそれは個人的なことに限定されず、人類史、人間史、あるいはまた人間の歴史が長い間かけて目指してきた方向性。それはやはり、「平等な社会」の実現に向かって行われてきて、これからもそういう方向に進んでいくのじゃないかなと思う訳です。もちろん、「平等」一つを目指している訳ではありませんが、「平等」がひとつの眼目であることは違いないと思います。

 「平等」は、黙っていても歴史が向かう方向にあると考えています。黙っていても歴史は「平等」に向かって歩みを進めて行くんだと思っています。ですから、ことさら何をしなくてもそうなっていくだろうと、そう考えています。ですが、みんなが無関心でいるよりも、「平等」について考えを深めていった方が早く到達するんじゃないかと思う訳です。到達するまでに長い時間がかかると、その間に不平等に苦しむ人は増えます。できるだけその数を減らすことが出来ればいいと思います。いくらでも少ない方がいいと思うのです。ぼくらが考えるのはそのためです。なんの力にもならないとしても、ぼくの言葉や文章に触れて、「平等」を求める人が居るんだなあ、と思う。そう言うくらいのことでもいいんじゃないかと考えています。ぼくらにはもう、これくらいのことしか残っていないです。大義めいたものはこれくらいです。後はもう銘銘に、ばらばらに、考えていくしか無いんじゃないかなと思います。その中で、早く「平等な社会」が実現できるように、少しでも考えを積み上げていきたいと、そう思っています。

○ 兵庫問題における不可解

 ぼくは自分の関心に沿ってこの問題を見てきただけですが、いくつかの不可解があり、それについて考えてみたいと思います。
 はじめに告発文書というものが出回りました。ぼくの関心はそこが発端でした。それで一応、兵庫県政組織内の内紛の問題なんだと解しました。知事と幹部との間で不信感が生じていて、知事を告発するというところに発展して行った、言わばありそうなパターンのひとつだと考えました。
 そうしたことで、はじめはたいした興味はありませんでした。ぼくとしては、どちらかが正義側よりで、どちらかが不正義側よりと、あまり大きな差異はないと考えていました。程度の差、相対的な問題だろうと言うことです。そこには絶対悪もないだろうし、絶対善もないだろうと言うことです。ですから、当初からぼくは両方だめという考えでした。なぜかというと、地方行政全体のあり方としてあまり評価できる組織、機構、機関とは考えていなかったからです。知事も、告発者である幹部も、どっちみち税金で生計を立てる側の人たちで、基本的にぼくは評価をしていません。行政サービスは基本的なインフラ整備くらいに縮小して、その分税金が少なくなる方がましだという考え方をしています。余分な行政サービスが多い、過剰だと昔から考えています。特にぼくらのような下流の県民、市民のための期間になっていないので、不要だくらいに考えています。反対側からすれば、あいつはなんだ、いろんなサービスを享受しているくせに感謝もない。だめな奴だ。と、そういうことになるのかも知れませんが、一応ぼくも県民であり市民ですから、言う権利はあるはずです。少額ながら毎月税金も納めていますから。そしてぼくがそう考えるのは、あまり直接的な恩恵を受けていないと感じているからです。

 なくなってもよい組織、機関ですから、その中で解決して終わり、その程度の問題に過ぎないと考えていました。
 このことは兵庫県民の半数くらいの人は、同じようにあまり関心が持てないことだろうなと考えていました。そしておそらく実際には問題が長引いた現在においても同様だろうと考えています。
 そうしてぼくの考えるまともなふつうの県民は、やはり県政というもの、県知事や県の職員というものに対してそれほどの好意は持っていないのじゃないかなとぼくは思います。
 ぼくの場合ですと、個人的にはこういう考え方をしていて、大変意地悪な視線を送ったりもしています。ですが、実際に役所に用事があって出向いた時には挨拶もし、丁寧な接し方もしています。もちろん、帰り際には「お世話になりました。ありがとうございました。」とお礼も言います。でも内心では役所内を見渡して、『こいつら、のんびりゆったり仕事してんなあ』と怒ったりしています。

 つまり、こういうところの実感からすると、知事のことも幹部のことも、それから平の職員のことも、何かある種守られた職場環境の中で気分よく仕事する、気に食わない連中だなあと考えるのがふつうではないかと思います。そして、投票に出向かない県民の過半数は、比較的ぼくなんかに近いメンタルで居るんじゃないかなと推察します。そうじゃないかも知れませんが、ぼくはそう考えています。

 さて、長くなりそうなので端折って言いますと、兵庫県問題には奥深い対立の構造が浮き上がって見えて来ています。
 現在の社会構造の中で「おいしい」思いをしてきている連中と、そうでない連中の対立です。
 ここは上手く言えないのですが、そうでない連中とは「おいしい」思いをしてきていない連中です。よく既得権益などと言う言葉が使われますが、この社会で「おいしい」思いから疎外されてきた人たちは、「おいしい」思いをしている連中を見ると、みんながみんな既得権益に守られているんだと見えているんだと思います。それに腹が立って否定したり非難したりしたいのでしょう。ですから、そういう既得権益みたいなものは打ち破りたいんだろうと思います。自分たちだけ得しているんじゃないか、と言うことです。
 それだけではなく、一緒に、例えば世の中的に言論の権威かのように立ち振る舞う大手新聞や、テレビ界などのオールドメディアに向けても批判的であると思います。つまり何か正統性を主張するもの、社会の中でオーソドックスと認定されるものなどに対して、反感を抱いているんだと思います。
 そしてぼくは、そこまではその人たちの気持ちが分かるような気がします。その上で不可解に思うことは、兵庫問題の例で言うと、立花孝志や斉藤元彦をヒーローのように見誤ることです。そこがぼくには不可解です。両者には新しい時代の人物像の欠片もないと思います。既得権益にしがみつく昔の権力者、政治家の、より劣化した姿しかそこにはありません。既得権益を否定しながら、それが上手くいったら今度は自分が既得権益を掌握する、それくらいのレベルでしかない人物像がそこにあるだけです。端から問題にはならないだろうとぼくには思われます。それどころか、より悪質なのは彼らの言動によって犠牲者が生じることです。

 立花や斉藤の取り巻きたちとは違い、末端で支持者になってしまった人たちは、本来ならば投票にも出向かない下部層に居る人たちだと見えます。それが釣り糸か投網かでつり上げられて、SMSなどを使って支持を表明したり、要するに活動する支持者に回りました。立花や斉藤が、政治家としてはやがて従来の政治家と同じか、より劣悪な政治家になるだろうことは容易に予測がつくことです。つまり同じ穴の貉、あるいは変種、亜種の狢に他ならないと思います。
 つまり、どうして、あいつもだめ、こいつもだめと言うことにならないのかが、今もよく分かりません。強いて言えば、自分たちも「おいしい」思いをしたいと言うところでの仲間意識と言うことになるのかも知れません。
 ぼくは記者たちの、正義面、正統派面というものも気に食いません。つまり悪しきオールドメディアの知的優位性を時として振りかざします。そんな大層のものかよとぼくは思います。

 と言う訳で、ぼくは兵庫県問題に登場する登場人物たちはみんなだめと考えています。ぼくは前提となる現実を現実のままとして認めていません。全部崩壊して別物に変わるべきだと考えています。ですから、ぼくと考えが合う人はひとりもいないだろうと思っています。そして実際その通りです。
 その中で一番考えが近いというと、ぼくはこの問題にも選挙や投票にも無関心な人たちだと思っています。無関心と言うことは、あっちもこっちもだめということと近いところにあると思います。そしてその一部がデマゴーグにつり上げられて、水面上に浮かんで一部支持層に回っていると見ています。いろいろと推察や推量を重ねているのですが、どうして簡単につり上げられるのか、どうしてあっちがだめならこっちもだめと気づかないのか、いまもって不思議で不可解な気持ちが続いています。


2026年8月5日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「上書きの知」です。

○ 民主主義について

 民主主義は人民多数の意志によって政治を決定する考えの元に、人民によって決定される統治システム全体のことを指して言う。人民権力、人民多数派支配などと考えるとイメージはしやすい。現代という時代の趨勢は、ほぼ全ての国家に民主主義的であることを要求している。
 我が国においても民主主義の考え方が基礎になって、国家運営等がなされている。国の根幹の考え方になっている。この考え方に多くの国民が賛同し、また政治的指導者たちも何かというと民主主義を守れと口にすることが多い。

 民主主義という考え方は多くの人たちの賛同を得て、これは国家社会をよくする切り札のように考えられている。現在までのところ、これよりも人民の多数に支持され、評価される考え方というものは出てきていない。
 ところで、この民主主義という思想が万能のものかどうかは分からないが、社会をよりよく進めてきたと一定の評価は出来そうに思う。そして国民の社会における自由度も、確実に増してきた気がする。しかし、同時にぼくなどは民主主義の限界のようなものを感じさせられてきた。
 民主主義的な社会をどんなに積み重ねてきても、あるいはどんなに社会的に馴染んでも、下層、下級、下流の人たちにはそれほど役立つものではない。あるいはそれほどの益をもたらすものでもない。封建主義的な過去からすれば、言うまでもなく格段の違いでよくなっていると思えるが、絶賛するほどではない。ぼくはそう思う。
 民主主義の恩恵を受けるのは、ぼくは中流の人たちだと思う。中流と言ってもずいぶん幅があり、ここでは一部の超上流、超下流を除いてこれを中流と考えれば、民主主義は多数派支配だから中流の考えが反映されやすい。超上流はもはやそのことに関係なく、社会に自分の意志を通すべく力を有し、だが超下流は全てから取り残される。民主主義はこの問題を解決できていないと思う。問題にすることもなく、取りこぼしをしたままに進んでいる。

 それと、民主主義がどんなによい思想であり、よい政治システムの中で進むものだったとしても、それが理念の通りに実現されているかというとまた別だ。ぼくはそこに大いに疑問を感じている。どんなに優れた思想やシステムでも、それが現実化できるかどうかは最後には人間と言うことになってしまう。人間は理念で動くと言うよりも、欲望で動くことが実際的だとぼくは思う。
 しかし、だからといって、じゃあ民主主義は捨てるかというと、ぼく自身ではそういうことにはならない。無いよりはあった方がよい。だが最終最後は人間なので、民主主義が建前だけのものにならないようにどうにかしないと、いつまでもぼくらは使いこなせないままになってしまう。民主主義が大事と連呼する前に、そういうところを考えてほしいものだといつも思う。貧困の民は民主主義だけでは食っていけない。生活していけない。


2026年8月4日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「入出と滞留」です。

○ ほぼ家の中で過ごし、その中でも小さな自分の部屋にいることが多いです。そうして何をやっているかというと、いろいろなジャンルの動画を見たりニュース記事を読んだりしています。それから時々ワープロ機能を使って文字を打ち込んだりと言うことです。
 家の中に居ながらにして外の世界と接触していると言うことになるのですが、考えてみるとちょっと変です。現実の自分の居場所と、モニター越しの世界の断片とはどういう距離に置かれているのだろうと考えます。ゼロ距離です。距離がない気がします。でも実際には、距離があるはずです。
 つまりこういうことです。例えば猫の動画を見ているとします。するとぼくの目と耳とは、画面の猫が動いているその現場に出向いていることになると思います。部屋の中でモニターを眺めているだけですが、目や耳はその現場にいます。ぼくはぼくで部屋にいるのですが、しかしぼくの目と耳はトコトコと現場に出向いています。そうするとそこにはどうしても一定の距離が生まれていて、ぼくは距離を縮めるべくそちらに出向いているんだと思います。

 ぼくはほぼ毎日そうしています。居ながらにしてどこかに出向いています。出向いては帰ってきてと言うことを繰り返しています。
 それで、ぼくは出かけていないことになっていると思うのですが、そういう形では毎日出かけているのですね。それこそ、あっちにもこっちにも出かけています。それこそあちこち出かけているので、気付かぬうちに疲れていると思います。同じような場所に行く場合もありますし、初めての場所に行くこともあります。

 現実的に、あるいは身体的に、ぼくはあまり空間を移動して歩くことはしていません。でも精神的にはけっこう移動しているという気がします。あっちに行き、こっちに行きしています。身体的な移動という意味での旅行はしていないのですが、精神的な意味合いでの移動はけっこう繰り返して、あちこち旅していると言ってもいいと思います。それこそ風に吹かれて気の向くままに旅して歩いています。ずっと部屋に籠もっているのですが、一種の旅行者であると考えてもいいのかも知れません。あまり自覚的ではないのですが、毎日出かける意志を持って出かけ、そしてまた帰ってくると言うことをしていることになるのだと思います。引きこもっているんだけど、それでもけっこうあちこち移動して、それは結局生きていることになるんだなと感じます。

○ 「偏向報道」という題の映画があるんだそうです。その題名となる言葉が、ちょっと何言ってんのかなと言う感じがして、そのことをちょっと言いたくなりました。この言葉自体はしばらく前から使われていました。一種の、大手のメディアを批判する際に使われた言葉だと記憶しています。メディアが報道したことに対して、あの報道は公正、公平なものではなく、一方に加担した、文字どおり偏った報道だという意味合いで使われていたと思います。
 しかし、これはおかしな言葉だとずっと思っていました。どういうことかと言うと、報道にははじめから偏向が含まれるものだとぼくは考えていたからです。
 例えば競合する大手新聞が5社あったとします。某月某日の朝の新聞を比較すると、全部記事が違っているはずです。一つの事象を取り上げている場合でも、その記事内容は違っています。つまり、そこにすでに一つの偏向がある訳です。各社違っている訳ですから、5社それぞれに特色もあり、偏りもあると言うことになると思います。ですから、右より左寄りなど最初から違いがあり、いずれもどういう方向にか偏りがあると言うことになります。つまり最初から、報道にはちょっとずつ偏向があると言うことになると思います。そして報道には、最初から偏向のあることが前提になっていると言うことになろうかと思います。逆に言うと、偏向がない報道なんて、最初から無いんだと言うことになります。偏向を意図しようがしまいが、すでにもう偏向するものだと言うことです。それなのに、いかにも偏向報道などと新しいことを言っているようなつもりになり、鋭い指摘をしているようなつもりになっているのがおかしいと思います。なんならそもそもの言葉自体が、ひとりひとりニュアンスが違って発信したり受け取ったりしている訳で、言葉自体が偏向を含んでいるものです。報道を批判する側も偏向しているのですから、何をか言わんや、と言うことになると思います。


2026年8月3日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「観察の人へ」です。

○ 丸い大きなお餅を小さくちぎってこれを丸めると、小さいが大きなお餅と同じ形
になる。地球と地球の生命はそれと似た関係にある。解剖学者の三木成夫さんは著作でそんなことを述べていた。つまり地球とぼくたち一つ一つの命との関係は、約めて言うとそういうものだと言っている。地球にない物は命に含まれていない。地球にあるものだけで命というものは成り立っている。そうして一通り地球上で活動した後には地球という大地に還る。それが延々繰り返される。他の動植物もそうだが、それが繰り返されているだけで、そこに人間が望んできたような特別な意味はないのだろうと思う。人間は人間特有の観念世界、幻想世界を構築し、その中では人間的な生命、生存に、意味や価値というものを付加してきた。人間世界では重要事と意識されているだろうが、もちろんそれは人間世界内のことに過ぎない。人間たちの思い込み、信じ込みで、本質的に宗教的なのであろう。人間はこういうようにしか生きて来られなかったのだろう。その意味では人間にとっては必須のやり方で、しかもとても大事なことだったと言える。そしてこれからもその延長上に進んで行くことになるのであろう。

 意識を意識すると言うこと。意識を自覚できるように発達したと言うこと。こうなってしまったものは仕方がないので、後戻りできない。たぶん。当面はこの延長で行くしかない訳だし、まあ拡張して行けるところまで拡張して行くことになるのだろう。これを好機と捉えるかどうかは人それぞれで、ぼくとしてはできるだけそう捉えるように努力して来たというところだ。経験とそれを受けての実感。これは苦でも楽でも同じようなもので、何か生存の醍醐味みたいに感じられて、なかなかに去りがたいと思わせられるところだ。もちろん生きている間だけと言うことなので、生きている間は存分に味わうことにしたいと思っている。


2026年8月2日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「宣言」です。

○ 躁鬱病をはじめとする精神の不調について、ずいぶん昔から関心があります。西洋に起きた近代産業革命は、反動のように公害を産み落としました。自然変動、自然破壊、環境破壊のようなものです。当時は一次産業から第二次産業への発展的転換が行われました。二次産業下では、自然が影響を受けたと言うことになると思います。
 さて日本では高度経済成長後、あるいはもう少し前から同じように公害が社会問題化しました。その対策・対処が進む中、今度はサービス業、流通業などを中心とする三次産業が発達しました。これを一つの産業革命と考えると、この三次産業の発達を受けての公害は何かと言うことが問題になります。
 これは以前のように自然が影響を受けるというものではなく、よくよく社会を観察してみますと、人間の精神が影響を受けていると考えることが出来るように思えます。人間の精神の変調、人間精神の破壊、崩壊というようなものです。そしてそれはいままさに進行し続けている問題ではないかと思われます。
 このことをぼくらに最初に教えてくれたのは吉本隆明さんです。吉本隆明さんの「心的現象論」の「序説」・「本論」の全体は、そういうことも視野に収めた著作だとぼくは考えています。
 それでずいぶん読み込んだつもりなのですが、その著作自体が結論を待たずに途中で終わってしまいましたし、後に続く人たちも残った部分について言及し切れていなかったなと思います。ぼくも息が続かなくて、書かれなかった部分は後をたどれていないし、うやむやのままだと感じています。

 現在の日本社会を見ていますと、その精神世界、幻想領域全体が非常に無秩序で、ごちゃごちゃになっているとぼくなどは感じます。それでいながらなんとか社会は社会として成り立っていますし機能もしています。それほど根深く崩壊寸前とまでは行っていないのですが、しかしあちこちで雪崩や余震が頻発しているというような、そんな印象です。
 もう一度、「心的現象論」を読み直したいと思うのですが、ぼくの方ももうちょっとそんな元気はなくなっているようなのです。自分の方も怪しくなっています。…物足りないところですが、今日はここまでにします。


2026年8月1日

 『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「元締論」です。
 
○ 辺野古転覆事故に関連して

 辺野古転覆事故の問題がまだ継続しているようです。高校の研修旅行中の事故で調査委員会が発足、その調査についての報告会が行われる旨の記事を読みました。ぼくは調べてもいないのでよく分かりません。ただ、こういう事故というと、先の東日本大震災時の小学校の児童が集団下校時に波に飲み込まれた事件と言うのを思い出します。それもぼくは詳しくないのですが、問題が長期化したという印象を持っています。

 ぼくのこの種の事件への関心としては、学校が、あるいは教員が、どこまで児童・生徒の生命というものに関与しているか、また関与できるかという問題となります。それ以外のことについてはほぼ無知であるし、言及すべきじゃないという立場です。また、関心あることに限定しても、この種のことはぼくにはは正直言うと難しいなと言う感じで、なかなか決定的なことは言えそうにありません。

 ぼくが児童生徒の死に近く関与した教員だったとしたら、一も二も無く辞職をすると思います。ですが、考え方としては、そこまでは責任を負いきる立場にはないと考えます。学校の先生の責任は、勉強を教えることと、ふつうの社会人として通用するような基本を養うことだと思います。そもそも児童生徒の生命の危険を想定して、そのプロとして先生になった訳でも何でも無いのです。ただそういう場合もあり得ないことでは無いと言うことで、ちょっとした避難訓練や研修をもつくらいだと思います。それは仕方がないことです。訓練や研修が仕事の中心ではないですから。
 ぼくも小学校の先生をしたことがあるので分かりますが、基本は安心で安全な環境の元で勉強を教えるんだ位で先生になると思います。のんびり、穏やかな環境で子どもたちとふれあえる。そういうことを楽しみに先生になる人が多いと思います。それが何かあった時に強く責任を問われ、厳しく追及されるとなると、今度は先生のなり手がいなくなるんじゃないかなと思います。先生という商売は内に入って打ち込むと、けっこうハードで大変です。こういう譬えが適切かどうか分かりませんが、たまに役者さんで役に入り込んで脱けられなくなる話があるでしょう。先生にも似たところがあって、公私の境なく年中先生をやってしまう人もいます。これで病む人も出てきます。そういう秘めたハードさを常に自分で抱えているのです。それ以上の他からの追及がなされたら、簡単に「やってられない」となると思います。

 ぼくはこういう事故や事件があった時には、管理職、つまり校長が責任を取る形で一等最初に辞職を表明すべきだと思います。問題化した時点で、何よりも先に責任を取ると言う姿勢を鮮明にすべきと思います。つまり、犠牲者が出ている以上、誰かが何らかの形で責任を取る姿勢を示さなければ、沈静化に向かっていかないと思います。それは校長とか、教育委員会の長とかが適任だと思います。
 そうでなければ保護者の気持ちとしては収まりがつかないと思います。自分の子どもの命だけが失われて、いわば犠牲になって、その子を教え導く側が何一つ犠牲を払わないというのは親としてはどうしたって、どう考えたって、納得できるはずがありません。そういう教育課程を組み、計画をし、実行するのは学校側ですから、事故が起きた時には誰かがその責任を取るのがふつうです。誰が辞職しても納得できないのでしょうが、そういう決断をすることによって、一定、誠意は感じてもらえるかも知れません。そういう可能性があるとすれば、それは速やかに行った方がいいはずです。

 「公」のものは、問題が複雑に絡み合う前に、保護者と話し合い、その意を十全に酌んで、それに匹敵するかそれ以上の誠意をまず示すべきと思います。そのためには職員全員の辞職も辞さないと言うくらいの考えでないと受け入れてもらえないと思います。先生たちはどちらかというと社会経験が少なく、とかく教育とか学校とかのことを守ろうとする姿勢を取りがちです。それはよくないことです。
 全員が辞職する覚悟のところで、校長が自分の辞職だけで済むように保護者を説得できたら、それが一番いいかなと思います。

 もちろん学校側に重大な過失があるとすればそれで済むはずもありません。刑事あるいは民事で告訴される事案と言うことになれば、それなりに粛々と進めて行くほかないですから、そのように進んで行くことになると思います。今回の同志社国際高
のケースはそう言うように進んで行きそうなケースのようです。そうなると、もうぼくなんかの考えるところではなくなってしまう問題と言うことになります。
 いずれにせよ「公」教育というものは、犠牲者を出した時点で誰が言わなくても「公」教育の自滅を意味していますから、四の五の言い訳を言わないことが肝要だと思います。そして誰かが責任を取って職を辞する覚悟が必要だと思います。生活がありますから簡単ではないのかも知れませんが、逆にそれくらいの覚悟が出来るようであれば他の職業に行っても通用するんだと思います。

 こういう場合の会見なり報道では、よく職業倫理的なことが問われます。ぼくがここで考えることを端的に言い直すと、過剰に職業倫理的なことを追求してはいけないんじゃ無いかと言うことです。この手の報道では事故に関係する人たちに過剰に倫理を求めすぎます。自分を見れば分かるはずですが、人間というのは勤務中でもけっこう5割くらいの力なり集中なりでやっていると思います。いざという時でも7割から8割の力を出すくらいじゃないでしょうか。それに対して、10割でやっていないじゃないかと批判してもあまり意味ないように思えます。またそういう追求の仕方は酷なんじゃないかと思います。だからそういうことも含めて、責任取る人が必要なんだと思います。法的な決着を最後には取るのでしょうが、そういうところに行く前に決着できる方が人間にとってはよいような気がします。