養老孟司「新書本」論2
 
V 「いちばん大事なこと」について
 
 この本は環境問題について論じています。その骨子は,環境問題こそ最大の政治問題であり,われわれが自然の複雑なシステムとうまく折り合いをつけて生きていかなければならないことを言っています。
 環境問題といえば,学校教育の世界でも大きく取り上げられてきて,在職中はいろいろ考えもしたのですが,結局のところ「分からない」というのが自分の実際でした。大切なことは理解できるが,それでは,自分が生きていく中でなにをどうしたらいいのか,それが分からない。そう思っていました。
 『樹木を切り倒したり,山を切り崩したりしてはいけない。だから,そういうことに反対する運動に参加して,それを阻止するようにすればいいのか?でもそんな単純なことではないだろう。環境を守るという観点から,いろんなことを積極的に見聞きし,勉強していくことが大事なのか?大事には違いないが,生活の営みに汲々とする中で,果たしてどれだけのことができるのか。たいしたことはできないに違いない。』
 そんなことを思って,結局子どもの前には,「大事だ」,「大事だ」,を繰り返すばかりだったような気がします。
 子どもたちを啓蒙するということも,大切なことであるには違いないのですが,自分にさしたる実践上の根拠,確信がないのに,ただ言ってみるだけというのはつまらない。かえって,『うるさい』と,子どもたちに感じられる逆の効果を生じたりなしないかと心配する気持ちもありました。
 実際,自身,「環境」の二文字をうるさく感じることもないではありませんでした。常に,お前はどうなのだと,詰め寄られる気がしたものです。これに対して,最終的には,「俺は環境破壊に荷担したとしても,それはつましい程度のもので,世に騒がれるほどの責任はない。これからも格別大きく破壊しようなどとは思っていないのだから,俺がどうこうできる問題ではないし,どうこう考えなければならないことでもない」。そのように考えたと思います。一般生活者の立場に重きを置けば,それでいいのではないかと。
 もっと言うと,本書でも取り上げている「グリーンピース」のような「環境原理主義」的諸団体の主張,これがどうも嫌いだということがあります。また,新聞を見ると特に感じられるのですが,企業が大きく「環境問題に取り組んでいる」ということを一面を使ってアピールしている。そうでなくても,必ずなにかしらそういう取り組みをしていることを企業が主張している。そういうことに,胡散臭さを感じるのです。それは,なにか,「罪滅ぼし」とでも言うような意味合いがあるのではないのか,そう勘ぐりたいほどの強調ぶりに思えるのです。
 さらに言うと,これは政治家が発言すると,要するに党派的な駆け引き,利害,政治的な道具にもなってしまい,そこでは素朴な自然への思い,環境への危惧が,政治的に利用される事態も考えられます。
 こうしたことを考えると,安易に環境問題に首を突っ込むことは,これはしない方がいいなと,考えざるを得なかったと思います。養老さんの言いぐさではないが,自分は「世直しのために生まれた」のではない,そういうことです。
 そういう中での,養老さんの本書の出版です。食い入るように読みました。違和感なくあっという間に読み終えました。自分の言いたいことに近い内容が,言い尽くされている。そう,思ったものです。みんなに読ませたい,そうも思いました。たとえ一人二人でも,ぼくの,関連する文章をきっかけに養老さんの本を読んだり,その主張に耳を傾けてくれることになれば,それはぼくにとって,共有する思いが広まることでもあって,嬉しいことなのです。
 
 さて,前置きが長くなってしまいました。養老さんの本文にそって,その意見に耳を傾けていきたいと思います。
 まずこの書は,第1章から第6章までに分けられています。各章のタイトルを紹介すると,第1章「虫も自然,人体も自然」,第2章「暮らしの中の環境問題」,第3章「歴史に見る環境問題」,第4章「多様性とシステム」,第5章「環境と教育」,第6章「これからの生き方」となっています。
 まさに縦横無尽,さまざまな角度,観点から「環境問題」にアプローチして,多面的な見方,考え方を見せてくれています。
 
 第1章「虫も自然,人体も自然」でぼくの目にとまるところを,まず見ていきたいと思います。
 はじめの方で,養老さんは,経済問題,国際紛争など政治が関わらなければならない問題はたくさんあるけれども,それらは環境問題に比べると小さな問題にすぎないと断じています。百年後に人類が生き延びられるか,環境問題こそ最大の政治問題だと言うのです。
 この認識は,経済問題,国際紛争が,ある意味で目先の出来事であるという考えを含んでいます。例えば,イラク問題が百年も続くかと言えば,たぶんそうはならないわけです。百パーセントとは言えないまでも,近々に何らかの解決はつけていける問題なわけです。また,そうでなければならない。ところが環境問題となると,ずっと先の未来まで,これは続く問題であると。これにはきりがない。きりがないけれども,今のうちにやれることをやっていかないと,危ない。社会生活,経済生活が便利さ,快適さ,に加速する中で,土台となっていた自然,環境が実質的に目減りしてきてとんでもないことになっている。このまま行けば,都市的な繁栄のちょうど裏側で,自然や環境は消費し尽くされ,結局は人類の自滅につながっていくと考えられているのです。
 そう考えながらも,「地球環境に優しい生活」に養老さんは励んでいるわけではないというところは,自分のことを棚上げせずにものを言える人だなと共感する部分です。
 そういうことを考えていないわけではないが,「もう少し大きく方向を変えな」ければどうにもならない,と養老さんは思っているというのです。世の中が「ひとりでに」よい方に動くように,つまり,普通の市民の感覚が変わらなければならないと養老さんは言っています。みんなの考え方がどう変わればよいかというのは,直接には言及されてはいません。ただ,これまでの人々の考え方から結果として環境問題,自然の問題が取り沙汰されるようになったのですから,反対向きに考えていくことが必要とされていることは推測できるように思います。
 つまり,何かの「運動」が必要なのではないということなのではないかと思うのです。一人一人がそのことを考える。紆余曲折はありながら,徐々に徐々に,環境に優しい生き方をみんなが考えるようになる。そのことの気の遠くなるような積み重ねからしか,未来への希望は湧いてこないのではないでしょうか。ぼくはそう思います。そして,力のある人は人々によりよい考えへと導く提案をしていけばいい。そう思います。
 さて次に,養老さんは環境問題は一般的に「人間」対「環境」,「人間社会」対「自然環境」の図式でとらえられがちであるが,そのとらえ方がそもそもの間違いであることを指摘しています。これは養老さん流に言うと,「意識対身体」,「都市対自然」ということになると言われています。「意識」は脳の働きであるが,「意識」とその「意識」的な「こしらえもの」としての「都市」が「自然」あるいは「自然」としての「身体」と対立するという図式です。これは単なる置き換えごっこではなく,人間のみに与えられた,「人間的意識」の発達の,あるおそろしい一面を暗示していると,ぼくは思っています。
 意識と身体の対立。養老さんの先輩格である同じく解剖学者であった三木茂夫さんは,これを頭と心,精神と心情の対立とみて,かつて「頭」の独走に警告を鳴らしていました。そのことを思い出します。要は意識,精神,頭の作用は,もともとが自然と対立するものであって,極端に言うと,やがて人間はそれらの奴隷になり自滅に向かうんだよ,そんなふうにぼくなどはあえて大げさに考えるようになってきています。意識には,ある意識固有の性癖がある。偏り,あるいは癖がある。それは頂点で自然と対立する。これは別に,脳が,意識が,悪者だと言っているのではありません。自然には,意識を超える大きさがあります。意識はそれが気に入らない。そういうところの問題です。
 ところで,このあたりの話で,養老さんが,身体が生態系であることを説明する部分は大変面白いと感じました。生物学的に言うと,身体には一億以上の生物が住みついているのだそうです。そう言われると学校で教わったような気もしますが,もうすっかりそんなことは忘れていました。また,身体にある水はたえず入れ替わっていて,皮膚や筋肉その他も入れ替わっているということで,物質的に見れば,昨年と今との我々はまったく別物といってもいいらしいのですが,あらためてこれを考えると,実に新鮮な指摘に感じます。この年になってあらためてそんなことを考えて,「ああ,そうだよな」と。子どもの頃ではこういう実感は湧かないものです。
 身体の70%以上が水分という知識は与えられても,川のように身体の中を水が入れ替わって通過していくというイメージは学校の先生からは与えられなかった。かつて教員であったぼくがそう思うのですから,もちろんぼくも子どもたちにそんなイメージを与える授業はしてきていないということで,無知の悲しさをしばし実感します。
 それにしても,このように考えると,身体はまったく去年の自分と同じとは言えないのに,なぜ「自分は自分」で同じ存在であるとぼくらは考えるのかに疑問が及びます。このことについては意識の機能であるとして,養老さんがいろいろな本の中で繰り返し述べているところで,これがまた実に興味深いところでもあり,同時に厄介なところでもあります。簡単に言えば,「信じ込み」の問題などもそうなのですが,どこかにこれは脳の機能の一部,意識の働きの一部であるという客観的な見方をおいておかなければ,これにやられてしまう。そういう厄介さがあると思うのです。つまり,これからは,そういう危ない「意識」から自衛する手だてをそれぞれが自分で用意しておかなければならない,そういう時代が来ているのだと,ぼくなどは考えているところなのです。
 意識と身体に関わる養老さんの言葉をこのあたりで拾い出してみると,次のような言葉も見えます。
 
  「人工」とは意識がつくり出したもので,「自然」とは意識がつくらなかった世界で ある。
 
  意識がつくり出した世界,頭で考えてつくった世界を,私は「脳化社会」と呼んでい る。具体的には都市のことである。自然がつくった人間の体と,脳化社会はあちこちで 矛盾する。そのことを二十年ぐらい言い続けているが,十分には理解してもらえていな いと思う。
 
 頭で考えてつくったものというと,人工的な「物」だけではなく,制度的なもの,道徳,習俗その他の観念的なことまでを含むものだと思います。そして,いたるところ意識の手が行き届き,人工的になった社会が都市であり,養老さんはそれを「脳化社会」と呼んでいるのです。
 そこでは,「自然がつくった人間の体」は「矛盾」として「存在」するということが言われています。言葉を換えていうと,自然としての身体が疎外される,そういうことになるのだとぼくは理解します。もう少し考えてみると,この意識中心の社会には身体の置き場がない,そういうことではないでしょうか。もちろん身体もまた生きて活動しているわけですが,どこか「意識」に奉仕する意味合いが大きい。身体が,あってないような,そんな生活になっているのではないか,そう思います。うまく言えないのですが,どうも意識だけが重要視されて,その分,身体はおざなりになっているような気がするのです。
 これはある程度歳をとって気がつく。体が思うように動かなくなって,「あれっ」ということになる。体についてあまり考えてこなかった,知らなかった,あるいは忘れていたということで,まあ間に合わないことが分かってきます。
 ぼく自身,たばこは吸う,コーヒーをがぶ飲みする,食事はとったりとらなかったりと典型的な意識中心の生活を続けてきたと思います。身体に向かっての典型的な環境破壊。これは幾分自覚しながら,自虐ではないが,止むに止まれない,そういう生活を自分に強い,また他からこれを強いられてきた,と言えるのではないかと思います。
 中高年の医療,健康食品ブームは,これと関連していると思います。ここでもまた,養老さんの指摘は容赦がないです。人々の意識にのぼるのは,「ああすれば,こうなる」型の思考で,これが脳化社会の基本思想であると言われます。つまり,「これを飲めば健康になる」式の発想です。
 人工環境は「ああすれば,こうなる」が成り立つ。こうすればテレビが見れる。ああすれば車が動く。こうすれば病気が治る。そういうことです。これが成り立つ場合ももちろんあるのですが,ところが,「自然はたくさんの要素が絡み合う複雑なシステム」なので,自然に向かう場合,それがいつも単純に成り立つとは限らない。身体においてもその複雑さは同様で,不調の原因は決して一つ二つのことから起きるのではない,そのことを理解しておく必要があるということだと思います。健康にいいからと摂取していたら,じつはそれが害になっていた,そういう後からの結果を聞くことも少ないことではありません。
 歴史はなにかが起こったことを連続して記述する。しかし,日常的な生活身辺では実際にはなにも起こらないことの方が多い。そういう努力を日常,人々がしているからだ。そして,何も起こらないことほど平穏で幸せなことはない。何も起こらないことを評価する,そういう見直しが必要ではないか,そんなことも養老さんは言っているようです。
 環境問題に対しても,「ああすれば,こうなる」式で,結果的に余計なことをしてしまうことが多々ある。何かが起こらないようにする。放置する。そういう逆の観点から考えることも大切。「なにかをしよう」とする癖。それが過剰であると,「環境助平」になる?
とまでは言いませんが,それに近い意味合いのことを養老さんは言っています。
 その中で,田んぼの側溝がコンクリートになったのは,日本住血吸虫の被害を防ぐためということを初めて知りました。中間宿主のミヤリガイが速い水流に住めないことからこの対策が立てられたらしいのです。ただし,日本住血吸虫が問題となっていたのは,岡山県や山梨県などの一部だったようです。それが全国に及んだのは,もしかしてコンクリート業界の力が働いたのかもしれない。そんなことも養老さんの文章からは読み取れました。
 ぼくたちの世代は,ドジョウが住み,水草が繁茂し,メダカやミズスマシが住む田の用水路がコンクリートに固められていくその過程につぶさに立ち会った世代です。個人的には,当時は環境美化,整備のためかと思っていました。堀で遊ぶことは卒業した年頃だったので,不平不満に思う気持ちはありませんでした。
 しかしこれは今から振り返ってみれば,DDTと相まって,生態系を根っこから変える結果をもたらした。そういうことになりそうです。
 当座はよいことがさんざん宣伝され,ぼくらもまたそれを「良かれ」と思って見てきた。ところがこれがいろいろにとんでもない結果を引き起こす。それだったら何もしない方が良かった。そんなことが現実にはいっぱいあるものです。おかげでぼくはこうしたことがトラウマになったのか,今,いいぞいいぞとか,こうしなければならない,そういった宣伝にはことさらに注意深くなりました。これがよいかどうかは分かりません。ただ,どちらかといえば,「何かを,しない」型の人間だなと自分を思うことがあります。
 このことに関連して,養老さんのコンクリートを取り除く提案は面白いと思いました。経済効果という点からも,検討できないかと思います。人工物を作ることよりも,壊すことに「経済的」効果はないか。国が「うん」と言えば,補助金がおり,それでもって公共事業が行われ,人々を雇うことができる。環境が,生態系が回復する効果。これは経済的に言っても,長い目で見れば,プラスになることではないだろうか。そう考えました。取り除いたコンクリートの処理やリサイクルという点でも,アイデアや工夫が必要となります。各企業が参画して,技術が高まる。これからは作るということばかりではなく,壊すという視点から,あるいは資源としての自然を回復するという視点から,社会に有用な会社経営というものがなりたち得るのではないか。素人ゆえの,そんな夢を一瞬見たりしたものです。
 これまでは,経済活動の実際として,お金のために,自然物を根こそぎ消費する。あるいは略奪し,変形し,破壊する。そういうことに結果的になっていたと思うのです。環境問題を経済的に見るとそうなると思います。そこでは,金は回るが,資源は確実に枯渇していく。養老さんはその関係を落語の「花見酒」で説明していると思います。
 なるほど,現代において人工的なものは,膨大といえるほどに豊かになったと思います。だが,自然という実体は,消費され,減少してしまいました。すべての経済活動は,ある意味で自然という資源の破壊か消費かに結びついていたと思います。だからといってあらゆる経済活動を停止せよと言ってすむ問題ではないことも自明です。人は生きて生活しなければならない。そこには経済活動が生じてきます。こうなると,ぼくらには最早口出しすることが何もなくなってきます。難しくて分からないよ。そう言って投げ出したくなるということです。
 ところで,人工物とは脳によって設計されたものの外化という側面を持っています。養老さん流に言えば,「頭の中が外に出たもの」です。当然,自然物とはもとから外にあったもの,ということになります。この,身体よりも小さい脳から,拡大されたものが外に出てきて,大きく人工環境が整備されてきたと言えるのですが,いうまでもなく,これは意識に偏った,じつは変なもの,歪んだものだと養老さんは指摘しています。そういう自覚が一般の生活者としての自分にはなかったので,こういう指摘は実に新鮮でした。考えてみると確かに,人間という全体の中では,脳も意識もその一部にしかすぎないはずなのです。ですが,これがどうも,人間の全体であるかのような,大きな顔をした存在のように感じられる。反省的に考えると,そのように思われてきました。
 環境が大切でも,ある意味,一面的に,絶対に自然を守れ,と主張する環境原理主義的な思考は間違いである。養老さんはそうも言っています。その主張,その考えも,これまた意識,すなわち脳の活動で,これを絶対なものとしたいと考える欲求はたいへん危険であると言うのです。たかだか1500グラムの脳が生み出す考え,養老さんには,そういう客観的な見方,考え方があります。けれども政治をはじめとして,あらゆる団体活動は,自分の主義主張を広めようとして数の獲得を目指し,結局のところその主張が「絶対」であるかの如く強調,あるいは粉飾して喧伝するものです。場合によっては周りを顧みずに強引に主張を押し通す。このことで周りが困っても関知しない。そういう独りよがりの脳の活動というのもあるわけです。
 本来バラバラのものであったり,変化するもの,異質なものを「おなじ」にしようとする,意識や脳にはそういった機能があり,その作用や働きを知って,自分の「考え」を客観視しなければダメだと養老さんは言っています。この,「おなじ」ものとして「括る」,
昨日今日明日を「つなげる」という意識や脳の働きがなくては,ぼくたちは今日のように生きていることはできないのですが,同時に,これは固有の働きであって,過信してはいけない。それどころか,現在では「あぶない」ものであることも分かってきた。そういうことで言えば,自然は予測不能の,頭では切り取ることのできない大きさを持ち,脳や意識の欲する単純化には従わないものです。要するに自由にはならない扱いにくいものに違いないのです。それが嫌で,手っ取り早く河川や堤防をコンクリートで固めてしまう。自然を相手に我慢や忍耐,辛抱を続けることができなくなってきているのだと思います。これには文明の発達も大いに関わりがある。そして,誰もそんなことを考えないかもしれないのですが,学校という組織,建物,それらについてもこの観点から見直してみたらどうかと思ってきました。つまり,合理的,効果的という,意識の得意とするところは,一部しかじつは見えていないと疑われるからです。「自然としての子ども」を別物に変えてしまった。学校という組織や設備の過剰は,じつはもっとも疑わしい。そういう不安を覚えます。
 自然は,あるいは自然を,すべて分かるものだと考えてはならない,そう養老さんは言っています。身体の分からなさ。思い通りにならない不自由さ。できることできないことがあり,固有の欲求があり,意識はしばしば自身の身体を嫌う。これは自然と同じく意識の作り物ではないからでしょう。分からないもの,予測がつかないもの,そういうものとして自然があり,その一部であるところの身体がある。そういう自然の一部としての自分をどこまで我慢して受け入れることができるか,養老さんはじつはそこが環境問題を考えるときの出発点になると言っています。そして,自分の中の自然と折り合いがついていない人が,外の自然と折り合えるはずがないと言っています。
 
 第2章「暮らしの中の環境問題」では,炭酸ガス問題,エネルギー問題,反捕鯨運動,環境ホルモン問題,禁煙運動,農薬や遺伝子組み換え作物の問題,ゴミ問題などが取り上げられて論じられています。
 その中で,養老さんの主張の中心を形作っているものは,やはり一貫して「環境問題は政治問題である」というとらえ方だと思います。「政治活動の根本のモノサシに,環境を置くべきだ」と言っていると思います。
 個々人が暮らしの中でゴミを減らし,省エネを心がける,そのことは大切なことではあると思います。けれども,そこのレベルで云々してもどうにもならない段階にあることも事実です。周囲の地域,また世界全体を見たときに,それぞれの範囲にはいろいろなレベルの生活をする人たちがいて,それぞれの考え方で動き,生活している。それらを調整することは,「個人の努力の範囲を明らかに超える」。だから,環境問題は政治問題だと養老さんは言っていると思います。環境に悪いものを政治的に規制する。あるいは相手の立場に立ちながら,しかし実際のデータをもとに,互いが納得するような形での調整を計る。それは,やはり政治の働きに任すのが一番だと思います。政治を行うものには,それなりの自覚が求められる,そういうことだと思うのです。
 これに関連してさらに,いわゆる「京都議定書」,これからのアメリカの離脱問題が取り上げられて論じられています。これについては,「よい意図がよい結果を生み,悪い意図が悪い結果を生むという保証」がないから,社会正義という面からアメリカの対応を非難することは「正解」とは言えないという微妙な言い回しで,養老さんはまとめています。これが自然の難しさなんだよと言うのですが,半分は理解でき,半分はぼんやりとしているというのが,一読後から現在までのぼくの気持ちです。
 反捕鯨運動については,政治的な駆け引き,情報操作の問題として取り上げられています。エネルギー問題については化石燃料の使用による二酸化炭素の排出で,地球温暖化問題と密接な関係があることが言われています。また,人工衛星から夜の日本列島付近を撮った写真から,エネルギー使用の実態が,明るさによって判別できることを指摘していました。これは実際,なるほどなと考えさせられました。養老さんはこの写真から,「なにもしないこと」の価値を考えなければと痛感したそうですが,ぼくなどは宵っ張りでしこたま電気の恩恵を受けているものですから,うーん,と唸ってしまうばかりです。ちなみに,その写真で北朝鮮付近を見ると,ほとんど真っ暗闇でした。エネルギー問題に関しては環境に優しい国になっているわけです。
 環境ホルモン問題に関しては,その実験や測定に,「まだ何かが不足している」と養老さんは感じているようです。その中で,温室効果ガスの問題と同様,「悪いほうに転んだら,大変なことになりそうだという予想がつく。」と述べていて,注目されます。ただ,確信が持てないということも言っていて,それは「従来の科学がそうした問題を扱ってこなかったから」という指摘もなされています。その上でとりあえず可能なこと,すなわちデータの収集,基礎研究に取り組む必要があることを述べています。
 禁煙運動については,先の情報操作,反捕鯨運動に似た感触を養老さんは持っているようです。この中で,「ネイチャー・メディシン」誌に紹介された中国での肺ガン疫学をもとに,肺ガンの発生の主因は,一般的な大気汚染であろうと結論づけている点が注目されます。
 ぼくは,東京,大阪で暮らした経験もあって,大都市の大気汚染のすごさは知っています。車の排出ガスと周辺の工場から出る排煙,それに冷暖房装置,飲食店の煙,そうしたもののすごさを感じています。
 人体について権威ある学者の養老さんが,さまざまのデータをもとにしながら,「人類は自動車や飛行機で移動するという便利さを手に入れた代わりに,肺ガンになるリスクを背負った。」と結論づけていることは,ぼくは信じられることのように思います。
 たばこが肺ガンになる確率を増すことは,いろいろな研究団体からも報告されて,テレビ,新聞でもよく見聞きすることですが,それでも養老さんはそう言っているわけです。 考えてみると,たばこのデータはよくとられ,研究も進んでいるようですが,大気汚染の影響についての研究,データは,あまり目に触れることのないことに気づきます。
 データをどう受け取るか。どのデータが信頼に価するデータなのか。官庁やジャーナリズムから出されるデータも,何かに都合のよいデータばかりになってはいないか。こういうことについて一般の生活者レベルでは,そういうデータの選択,また発掘が非常に難しい。養老さんはこういうことも指摘しています。実に同感で,ぼくもまったくそのとおりだと思いました。
 特に学校などに在職していますと,公共機関からのデータは疑いもなく流通し,そこに「自分で考える」というフィルターは取り払われてしまいます。そこではもう,どこの,何の,どんなデータに依存するか,だけが問題にされるだけのような気がしていました。すくなくとも,本当の意味での「自分で考える」人間は皆無だ,そうぼくには感じられていたものでした。すべてがどこかからの,誰かからの受け売りで,それは仕方ないとしても,そこから自分の言葉,自分の考えをひねり出す,力ずくで創造していく,そういう衝迫力を持った人には出会わなかったなと,そう思います。まあ,こんなことを言ってもしょうがないことですが,それだけ,自分で考えることは難しい。そういうことなのだと思います。ぼくにしたところで,そのことができているかというと,疑わしい。仮にできていたとして,それがどうしたというのか。そういう問題でもあると思います。
 遺伝子組み換え作物については,直接言及するのではなく,ここでは「なにかを手に入れたこと」の「ツケ」と言う表現で,「丸儲けはない」んだということを言っているようです。日本が夏なら地球の裏側は冬,みたいなもので,ものごとには裏側がついて回るということだと思います。
 食の安全については,これはもうぼくなどにはどうでもいいというか,それこそ自分ではどうにもできない,お任せ状態にあります。
 子どもの頃には,虫の卵のくっついた野菜をしこたま食ったはずです。小学校では,チョコレートに似た「虫下し」をよろこんで食べていました。だから,食べられれば,農薬だって何だっていいやと,そう思うばかりです。塩分も食品添加物も,全然問題ない。
 それを問題にするなら,食事は全部自給自足。材料をすべて育て飼育し,調理も自分で行う。ぼくならばそうすることにすると思うのです。それができないならば,すくなくとも文句は言うなと,そういったところです。言ったらきりがないし,農家や牧畜に従事する人,加工業にたずさわる人,全部を敵視しなくてはならない。ま,ぼくは現状ではしょうがないな,そう思っています。ただ,これが問題になってくると,気をつける人,安全を配慮する業者さん,が多くなってくると思います。これも「丸儲けはない」なにかがあるかもしれませんが,こういう形で改善されていくことを期待するほかはない,そう,思っています。
 最後の,コンビニ弁当の四割が売れ残るというゴミ問題関連の話は面白いものでした。簡単に言うと,弁当の四割は売れ残って堆肥にされ,作物となってまた弁当に入る。この循環ができています。よく考えると,この四割は常に人間の口に入らずに,ひたすらこの循環を繰り返すだけなのです。これで,経済が成り立っている。つまり,経済が成立するためには必要な無駄になっているということだと思います。無駄だから作らなければいいかということになると,そう簡単なことではなくて,この無駄がなくなると後の六割に影響が出る。つまり売れ残りは必ずでる。
 現在の経済を見ると,実際に消費され使用されるものと,無駄なものとがいっしょに流れているシステムができていて,それで経済が成り立っているように見えます。
 この,「無駄」こそ現代の象徴のように思います。ぼくは,これを「過剰」という言葉で,物から精神までひっくるめて考えてきました。これが経済をはじめ,あらゆる活動のサイクルの中にはめ込まれて存在する。もちろん,旧来の社会から考えれば異常なのです。ですが,これが現在の常態となっています。これで社会が何とか成り立っている。裏側からは,そう言ってもいいかと思います。
 ゴミ問題は,物について言われることですが,この実態を見て,では精神についてはどうかと反射的に思いつく人はいるでしょうか。ぼくは精神的なゴミもまた,物のゴミ同様にどこかに山積みされ,その処理に困る事態を迎えてはいないかと,ひそかに不安に思っている一人です。
 とりあえずこんなところで2章の終わりです。
 
 第3章「歴史に見る環境問題」では,地球誕生から今日までを振り返り,地質学的な大変動から文明の発達にともなって起こった環境問題にメスを入れています。
 生物の絶滅の危機は,古代の大造山活動,巨大隕石の落下,火山活動,等々の自然の大災害によって何度も引き起こされてきたにちがいありません。
 また,人間が登場してからの環境問題のはじまりといえば,農耕が起源だとする指摘も従来からありました。養老さんはこれを都市化の問題というようにとらえて,過去の歴史に迫っている点が特異です。
 養老さんの見方によれば,古代文明発祥の地は,どこも歴然と自然が荒れているといいます。古代都市をつくるための建築材料,エネルギー源,あるいは農地化,要するに都市化というのはある意味,周辺の自然環境の破壊を代償としてできあがるという面が見られるようです。この都市化はもちろん,便利でよりよい生活を考える,いわば脳の持つ特性といってもよいものです。
 脳にとっては,これははじめから自然をどうするかが課題だった。いわゆる食の問題として,住の環境として。それで古代には,まあ比喩的に言えば自然と人間は互角の勝負をしていた。自然を壊してしまうこともあれば,そこから自然が回復したり,災害という形で人間をやりこめることもあった。しかし,徐々にそして確実に発達した文明の力により,道具の利用にともなって人間の自然に与える破壊の力は倍加していった。文章を読み進んでいくと,そんな印象が持たれます。
 その中で,産業革命の象徴とも言える蒸気機関の発明が,イギリスの森林を切り尽くした環境破壊の結果としてもたらされたとする養老さんの指摘は初めて聞く考え方でした。森林の消失で薪にも事欠くようになり,イギリスでは露天掘りで石炭を掘り始めたのだそうですが,その時にしみ出してきた地下水をかい出すのに人力のポンプでは間に合わず,そのポンプに蒸気機関が応用された。これがきっかけとなり,飛躍的に産業が発達することになった。そういうことのようです。
 人間は行き詰まると,何とか工夫してそこを乗り越える。これもまた脳の働きに依存するところです。ぼくなどはだから,環境問題に対しても楽観するところが多い。何とかなるだろうと思い,何とかならなかったら人類の滅亡があって,しかし地球の自然,生物にとっては何ら不幸な出来事ではない。かえって,歓迎すべき出来事であるかもしれないのです。こう言うとなにか,変な考え方に思われるかもしれないのですが,なに皆さんだって本音では自分の考えでどうにかできることとは思ってはいないはずです。進んで環境を破壊していこうとは思わない。人類の滅亡を願ってはいない。できたら今よりよい在り方で自然と共存することができるに越したことはないわけです。けれども,その方途は,ぼくらが考え得ることではない。そう思っているだけです。考え得る立場にある人たちがいて,否応なくそういう人たちにお任せするほかはない。考えていただくことを信頼する以外ないのです。そして人間の力というものを,他人というものを,それくらいには信じているというところが自分の実際だと思っています。
 人間の悪いところを自分も持っていて,だから悪人のことも分かる気がする。反対に善の部分もあって,その部分で他人の善が理解できる,そう考えています。まあ勘違いかもしれないのですが,そう考えてしまっているので,これは仕方のないことです。
 ところで,養老さんはこの都市化の問題において,日本は独特であったことを考察しています。奈良や平安の古代都市といっても周辺の自然などとの隔絶をもうけず,常に行き来があっただろうこと,日本の自然が非常に丈夫で,ある意味回復力,復元力に富んでいることなどのために,イギリスのような徹底的な破壊にはいたらずにすんでいたというようなことです。そしてまた,日本独特の「手入れ」というあり方が,自然環境を利用しながら環境を保つということにとても効果的であったことを指摘しています。
 「手入れ」とは,簡単に言うと,田舎の雑木林などで行われていた下刈りなどのような作業を指します。 荒れを防ぎ,切り落とした小枝などは薪にしたり有効利用していました。樹木もよく育ち,これもまた炭や薪の材料になりました。山菜やキノコ捕りに林に入るにも,この「手入れ」がなされていると大変入りやすい。
 最近はぼくの田舎でもこれがなくなってきているようです。林は荒れて,中に入りようがない。これだと逆に自然の豊かな恵みが生じようがない。そんな事態になっています。 養老さんは,さらに,戦前までの里山と屎尿処理とから,日本人の自然との上手なつきあい方を示し,そこにある自然観のルーツを中国の老荘思想から儒教,朱子学等に見ながらそれが日本にどう受け入れられたかを江戸時代の思想家たちを取り上げて考察し,問題提起としています。そこには自然の道と人間の道という二本の道が別々にたてられていて,日本人の自然とのつきあい方に深く関わっていたことがうかがわれました。
 こうした考察を経て,養老さんは,過去の生活様式にもどれとは言わないまでも,「手入れ」という発想を生活の中に取り入れる必要性を呼びかけています。そして,「手入れ」は「コントロール」とはちがい,相手を見ること,知ること,長い時間をかけた相手との直接対峙する経験が必須なのだといいます。それをしないで頭で理解し,頭の意のままに相手を動かそうとするのが「コントロール」で,水俣病はコントロール不能から公害を発生させ,多大な被害をもたらした例として,その詳細が記述されています。
 問題は,自然は一様ではない,マニュアル化して安心できる相手ではない。そういうことではないかと思います。
 ところで,環境問題を歴史に振り返って概観することでの養老さんの結論は次のようなものになっています。戦後,マッカーサーが社会制度の中で行動する日本人を評して「日本人は十二歳」の表現をしたことに対し,
 
  しかし自然というシステムに対してどう対処するか,それについては,日本人のほう がずっときめが細かく,よく理解し,つまり大人だったと思う。そうした長所をその後 の日本人はどんどん捨ててきた。今は日本人もかなりアメリカ化した。要するに日本人 は都市化したのである。
 
 言外に,戦後の日本の歩みへの批判が読み取れます。気持ちはよく分かる気がする。けれどもこの都市化に,夢と希望を持って努力した生活者に対する配慮,また都市化による便利さを享受してきた自分をどう見るのか,がここには表現されていない。そこに一抹の不満を,ぼくは感じました。
 先輩格の三木さんもそうでしたが,都市化の弊害が強調されるあまり,「以前の生活に戻れ」という考えが,養老さんにも生まれているような気がしてならないのです。
 しかし,人類にとって,自己意識を意識した時点から,都市化への道は必然の流れのような気がしてなりません。その流れは,そう流れていくものであって,いずれにせよその方向性を変えることは不可能なものだと思えます。
 便利さや贅沢を欲することは,これは人間の性質として認めなければならないことだと思っています。その欲求に,際限がない。それもまた,仕方のないことです。その上でどう自然と折り合いをつけていくか。養老さんももちろんそういうところで考えているのだと思うのですが,昔はよかったという自己体験に戻っていくところがあるように思います。
しかし,若い世代があり,その世代は体験を異にし,彼らにどう訴えかけるかは彼らの体験を含めて彼らを理解したうえで有効な主張をしなければならない。つまりは彼らの立場に立って,考えなければならないことではないかと思うのです。どうせ都市化に向かうなら,それを逆手にとる発想をしなければならないのではないか。ぼくなどはそう考えるだけが精一杯のところなのですが。
 
 第4章「多様性とシステム」においては,生物の多様性と自然システムの問題について,その関わりを分かりやすく解こうとする試みがなされています。どちらもはっきりと具体的な形でイメージできるというものではないので,いろんな例を引きながら,また考える角度を変えながら説明されています。読み進めていく中では,語や文章の意味するところが分かって,ふむふむと思うのですが,最終的には「よく分からない」,それがぼくの実際です。
 「生物の多様性」については,多様性の保全が大事ということくらいは分かります。現在生きているすべての生物が構成要素となって,地球という世界を形作っている。ある意味,どれも欠けてはならないものというせめぎ合いの中で現在というものが成立していると思うのです。だから,動植物をむやみに殺生してはいけない。もちろん,あらゆる生物は個々に生き死にを繰り返し,場合によってはかつての大規模な火山活動などによる種の絶滅はあり得たことだと思います。それは進化に弾みをつけ,新種の生物の誕生に寄与したかもしれない。大きく生態系が変わることには,その種のハプニングが想像されます。それはそれとして,このように,なんらかの種の絶滅による生態系の変化は,システムに大きな変化をもたらす可能性があります。いったん破壊された自然のシステムを,元に戻すことは不可能に近いことであり,回り回って人類の生存の与件に致命的な打撃を与えかねない,そういうことだと思います。まあ,醒めた意識で見れば,人類が絶滅し,そのことで新種の生物が誕生したり劇的な進化を遂げたりして地球がにぎわえば,それはそれで一つの行き方かな,とぼくなどは思うのですが,大きな声では言えません。
 「システム」の語義を辞書で調べてみると,【多くの物事や一連の働きを秩序立てた全体的なまとまり。体系。もっと狭くは、組織や制度】となっています。さらに今度は「体系」について調べると,【要素がそれぞれに他と関係し合ってまとまっている、そのまとまり】となります。
 ぼくもシステムという語はよく使いますが,上記の意味にある法則を加味したものをイメージして使っています。この「法則」は,特定の既知のものを指しません。分からないけれどもあるだろうという仮定の下に考えています。
 養老さんの言う「自然は巨大なシステム」も,こんなところで考えていけばいいやと思っています。バラバラではないということです。ちょうど人間の体が細胞や血管や神経その他のいろいろの要素から構成されているように,全体で,人間という存在が成立し,地球の自然も同様にすべてのものを要素として成り立っていて,相互に支え合っている。そうイメージして大きくは違わないかなと思っています。
 ところで,養老さんの文章で面白いのは,何かを述べるときの材料となる素材の取り上げ方とその扱いではないでしょうか。
 システムは複雑だが破壊は簡単であることを言うのに,時計の分解や殺人について述べています。時計の分解についてはもちろん,組み立ての難しさ,不可能をいうためのものです。殺人については,出刃包丁やピストルの弾が人を殺す,という発想を養老さんはとってみせています。要するにこんな単純なもので複雑なシステムである人間というものを殺す,それはどう考えたっておかしいのだということですが,ここに見事な対比が浮かび上がります。複雑なシステムを,単純な道具が破壊する。なるほど,言われてみればそうにちがいありません。人が人を殺すのは,ちょっと考えると複雑なシステム同士の争いのように思いますが,より具体的に考えると,そういうことになります。
 ハエやカを取り上げてロケットと対比し,システムについて説明している箇所もあります。月まで飛んだロケットに喜んでいるが,飛ぶだけならハエやカだって飛ぶし,ロケットを作る技術でハエやカがつくれるか,そう言ってハエやかの生物システムの価値が無視されていることに憤慨します。
 人工的につくれないということでは,細胞についても語っています。物理的には小さなシステムであるがけして単純ではないということ。「自分で栄養をとり,エネルギーをつくり出し,いらないものを捨て,必要に応じて分裂して増える。つまりそれ一つで,生きものの基本的性質をすべて備える」,そんな細胞一つさえ,人間はつくれないのだよということです。これらから逆に,生命システムの持つ複雑さが,どんなにすごいことであるのかということを示唆してくれていると思います。
 こうしたことから,養老さんはロボット研究が今後大切になってくることも言っています。それはこれまでの科学の方向性を変え,「システムの理解」に寄与する研究になるからだというのです。また,ミツバチ社会のシステムについても紹介していますが,これもまた見事なシステムといわざるを得ないような仕組みで,ぼくも読んで驚嘆しました。
 自然,あるいは生命,生物集団のシステムとは何かについて,これらの話から,そのおおよそは理解できる気がします。もちろん,ぼくの場合,自分の言葉でそれを説明するところまでは理解できていないという問題は残ります。まあそれは,今後の宿題ということで考えていきたいと思います。
 この章の最後のほうで,養老さんはエイズの広がりと航空機などの移動機関の発達について述べている箇所があります。
 単純な予測を越える出来事が関わる,すなわち科学的な「カオス」の問題について語っているのですが,専門的なことは別にして,たいへん大事なことを提案しているようにぼくには思われます。
 簡単に言うと,ジャンボジェット機を作るときに,誰もエイズの蔓延を想像したものはいない,ということです。エイズとジャンボジェットの関係が当たっているかどうかはさしあたってどうでもいいのですが,要するに何かを「こうすればああなる」と考えてはじめるときに,予想外のことが計画の外にいくらでもある。そう言う問題を投げかけているように思えるのです。
 そしてこれは,専門性を突き詰める道を追い続けた「現在」が抱える,大きな問題ではないかと思うのです。
 あらゆる分野において専門化がなされていますが,これは反面,全体を見失うという,あるいはトータルのシステム的な理解が欠如するという,そういう代償を払わなければならない危険性があるということです。
 これは,誰でも気づいていることではあると思いますが,まだその段階にあるというだけで,具体的に対策が考えられているわけではないように思います。あっても,まだ見えないところにあります。しかし,これは早く何とかしなければならない,ぼくはそういう問題だと思います。専門化が悪いというのではなく,そこに,予想がつかない事態が起こりうることを考え得る,想像力が必要だと思うのです。
 文科省が,もともとは善意に,誠意を持って,ああすればこうなる,だからこうしようと考えて実行しようとするところに,もう一つ,そうはうまくいかない,という視点がなければならない。こう言えばしかし,行政にはならないのかもしれませんが。
 専門化するということは,専門的に見てよいと思うことを「いい,いい」と言うわけです。専門化ということは,断片については非常に微細に追っていき,詳しくなります。けれども,他より詳しいから常に真実を手にしているかというと,ある事柄についてだけは真であっても,それが全体の中に置かれたときにどうであるかまでは分からないはずなのです。ですが,商売柄というか,たいていはいつも,これが正しいと言い,結果的にそれが嘘になりうることは現実が教えてくれています。いくら教わればそれが改められるのか,この問題に正面からぶつかる人は皆無に近いと言えます。私利に結びつかないことは,誰も考えようとはしません。しかしこういうところを考えるのでなければ,本質的なことは先に引き延ばすだけのことです。養老さんの文章を読み,またこれらの本がよく売れているということは,こういうことを考える人が増えるということでもありましょう。そういう意味では,希望を持っても良いのかなと,ぼくなどは感じています。
 
 第五章は「環境と教育」という題が付いています。ぼくが養老さん好きだと思えるのは,例えば次のような表現箇所があります。引用してみます。
 
  ところで日本の子どもたちは,実際のところ,どんな状況におかれているだろうか。 私は北里大学で理科系の教養の講義をしている。レポートを課すと,環境問題を題材に 書いてくる学生がかなりいる。いまのことだから,インターネットでさまざまな情報を 調べ,もっともらしいことを並べてくる。しかし,肌で感じて書いているとは思えない 場合がほとんどである。若い人たちにとって「環境問題は重要だ」ということが,いわ ばお念仏になってしまっているらしい。戦前の「忠君愛国」や「鬼畜米英」と同じかも しれない。
 
 環境問題が重要だという認識が,若い人たちにとってはお念仏と同じで,肌で感じてそう考えているのではないということが言われています。この見方は正確だろうと思います。そして,戦前のスローガンと同じかもしれないと疑念を表明しています。
 ぼくもまったく同感です。社会や報道が,これほどまでに「環境問題」を大きく取り上げなかったら,はたして一個人としてこのことに注意が向いたかどうか。単に,流行と同じで,その場の流れを感じとって「環境問題は重要」だと言っているだけではないかと思うのです。
 「肌で感じて」,「お念仏」,『戦前の「忠君愛国」や「鬼畜米英」と同じ』―これらの言葉は,現在の若者たちにありがちな,空疎な<善>を象徴する表現になっていると思います。若者だけではない,社会全体がこの<空疎な善>をまき散らしている。ぼくはそう感じています。
 学校においても,この<空疎な善>は,いやというほど此処彼処にはびこっています。大げさに言ってみれば,檻の中は<空疎な善>だらけという状態です。そこに人間が存在し得ないのは,昔のことわざにあるとおりで,「 水清ければ魚棲まず」そのものです。
 養老さんは,
 
  自然と人間社会のあいだを行き来して,自然環境を肌で学ぶ。そうすれば,環境に対 する感覚がいわば鋭敏になる。自然環境に何か変なところがあると,何か違和感を覚え る。大切なことは,その違和感をずっと忘れないことである。
 
 こう言っています。
 これで思い出すのは,ぼくが大学進学で田舎から上京した頃のことです。どこのなに川だかは忘れましたが,真っ黒い水のどぶ川を見て,驚いたのを覚えています。こんな水が,こんな川が,あるのかと,そんな感じでした。東京というのは,こういうところなんだ。というのは,一方にきれいでにぎやかな繁栄があって,一方に田舎には決してない汚さがある。そういう図式を見て取ったと言うことです。何かかけがえのないものを犠牲にしなければ,都会のこの繁栄はないんだな,そう思ったものです。
 違和感はしかし,川近くに住む人々こそ感じていたことでしょう。けれども,やむをえないと諦めがあったのか,行政の,住民感情に対する無視があったのか,言ってしまえばともかくも犠牲の覚悟の上で事態は進んだというほかはないと思います。
 つまり,ここでぼくが言いたいことは,違和感は感じた,だが環境の激変は結果として見過ごした。こうした日本の先輩たちから,なにを学ぶべきかと言うことです。養老さんの言葉だけでは,ぼくたちもまた自然を犠牲にして繁栄を手に取ることを選択しないとも限らない。そんな不安が湧くのです。実際のところ,ぼくたちは今ある生活を手放すことができるのか。できないに違いない。そう思ってしまっています。
 ぼくらは,先のそうした現実を目の当たりに見ながら,「環境の問題は重要」とは声に出して言ってこなかったのです。いわば黙認してきたといっても良い。
 当時の人々の大きな関心は別なところにあり,時が移り,今それが声高に叫ばれるようになりました。すると誰もが一斉にそれを口にする。
 今更なにを,そうぼくは思ってしまいます。どうせ口で言うだけじゃないか。
 違和感を持てと養老さんは言いますが,違和感を持ったぼくがこれくらいのところで,本当にいいのでしょうか。それを養老さんに聞いてみたい気がします。
 養老さんは自然と接する生き方をしろといいます。けれども,一昔前は都会人でさえもがある程度の自然との接触は持っていました。それなのにこの現実です。効果はあるのだろうか。そう思います。もう一つ,ぼくを含めて現代人が自然に接する生活をたえられるのか,そんな疑問が起こります。
 <空疎な善>といい,自然に接した生き方といい,ある意味根本的な問題で,ここではこれ以上踏み込まないことにしておきたいと思います。
 養老さんの文章で,ぼくの注意を喚起するのは次のようなところにもあります。
 
  この本を読んでいても,自然に対する感性を育て,自然と行き来する生き方を子ども に教えるにはどうしたらよいか,悩むかもしれない。こういう時代には,教育よりも, 母親がどう生きてみせるかが大切になる。子どもは母親から大きな影響を受ける。母親 が変わらないと,自然と接する生き方は伝わらない。まずは,子どもといっしょに自然 に触れてほしい。
 
 これはもっともな言い回しで,異論が興りようもないと思われます。ぼくにはしかし,ちょっと首をひねる部分があります。養老さんの意見に同調して,「子どもといっしょに自然に触れる」母親が増えたとします。その母親たちが,「やっぱり自然がいいわね」と言い始めたとします。それはそれで,悪くはないというべきかも知れません。ですがこのときに,「自然に触れないことはいけない」という意識が芽生えるのではないかと思います。そこまで行かないとしても,「自然」,「自然」と言い始めかねない。それもまたそれでいいのですが,自然に何の関心も持たない母親たちの感性からは遠くなってしまう。これも差し支えないと言えばそのとおりですが,ただ,自然に何の関心も持たず,自然に接する機会もわずかな人はなぜそうであるのかについて,考えずに跨ぎ越してしまう気がします。他人の意見に同調するということは,そういうことを含むと思います。
 養老さんの言葉を読み,また聞く機会もなく,ひたすら生活に汲々としている母親はいるわけです。もう少し生活をましにしたくてパート勤めをしていたり,ただただ近所づきあいに悩んで被害妄想をふくらませている主婦もいるかもしれません。
 養老さんの先の文章の言葉の中に,無意識の構造といったものを想定すれば,その言葉はインテリの主婦層,インテリの母親に向けられている。そう考えられるような気がします。そこでは,養老さんは単なるいい気なインテリ親父にすぎない,そうぼくには見えてしまいます。これをちょっと言っておきたいと思いました。
 ところで,この後のところで養老さんは子どもは「自然」であるという見解を示し,それを説明してくれています。その理由を,「意識が設計できないから」と言っていますが,小学校の教員を経験したぼくにはとてもよく理解できる気がしました。
 小学生,さらに高学年ともなれば,自分の考えを持っているように見受けられます。しかし,それはまだ人間というものは考えを持つものだと言うことに気づいたという段階にすぎない。自分で作り上げた考えとは違うものなのです。自分で自分をつくれないと同時に,親もまた教育も,思い通りに子どもを作り上げることはできません。自分も周囲も,思うように行かないところは仕方のないところで,これはもう存在自体が「自然」に近いからと考えるほかない,そう思います。これに比べると大人はもう少し,意識的に自分をコントロールできる気がします。けれども厳密に言えば,大人もやはり「自然」を内側に抱えていて,時としてそれのために日常的なきちっとした枠組みからはみ出すような言動をとってしまうような場合があります。
 都市は自然を排除する。都会の少子化は,子どもが「自然」であり,都会は自然を苦手とするものだから必然的に起きていることなのだ。簡単に言うと,養老さんはそう言っているように思います。
 このあたりは,さすがに鋭いなと感心したところです。
 さらに養老さんは,「わけのわからない」(とまでは言っていませんが)「子どもという自然」を「どう保護すべきか」が現代の教育の,あるいは少子化の根本問題になっていることを指摘しています。これもまた,ぼくはとてもよく分かる気がします。
 薄々ですが,現代の社会や大人は,本音のところでは子どもが嫌いなのではないかと,そうぼくは思ってきました。それが,「どう保護すべきか」という制度のあり方に結びついているに違いないと感じています。つまり,子どもたちをどうにか思いどおりにしたい。「ああすれば,こうなる」という枠組みの中に納めてしまいたい。 そういう欲求が,「保護」という形態をとり,「守る」という建前をとって,逆にまともな子どもの育ちを阻害していると言えそうです。
 なぜこうなるかというと,完全に都会化した現代人は,自分一人のことで忙しくなるからです。訳の分からない「子どもという自然」を相手にしている暇がない。この暇は物理的な時間ではなく,精神的なゆとりといったようなものです。子どもの事故を,天然記念物の木が切り倒されたくらいに思う,養老さんが言うところの現代の世相は,そのゆとりのなさの裏返しといってもいいと思います。
 よってたかって子ども,子どもといっているのは,心の手が行き届かない現状を,大人たちが自分の心に感じて,そのことを察知しているからでしょう。昔のように,手をかけないときの方が,心の手が行き届いていた。そう,ぼくは思います。この心の手の行き届きというのは,なにも大げさなことではないと思います。愛と信頼。それだけです。それを裏切られたときに,自分の許容の幅を広げて裏切りを裏切りとしない,受取手側の度量の大きさ。それがぼくたち大人に必要なのではないでしょうか。
 話を本書に戻して,「虫は自然の虫眼鏡」という小題にふれていきたいと思います。
 ここでは,オサムシ,マイマイカブリ,ゾウムシなどの虫をとりあげて論じていて,虫には自然の歴史が刻まれていること,それらの虫の系統図によって例えば日本列島の成立の歴史が明瞭になってくることなどが言われています。
 近年,二種類のオサムシのDNAの塩基配列のちがいを調べて分かった分化の時期を,整理して系統図を描いた研究があるのだそうですが,そこからどのような日本列島の変化の歴史が読み取れるかを養老さんが述べた部分を引用してみます。
 
  二千万年前,日本列島はユーラシア大陸の一部だった。現在の朝鮮半島のあたりから 北東に向かって,大陸の東端をなしていた。千五百万年前に,この東端部分は大陸から 離れ,東北弧と西南弧の二つに分かれた。同時に全体が沈み,小さい島がたくさん集ま った状態になった。その後,西南部から上昇がはじまって五百万年前に現在の列島の原 型ができたのである。
  オサムシの一種であるマイマイカブリの分化は,この歴史とみごとに対応している。 マイマイカブリの祖先は,日本列島が大陸の一部であったころから,このあたり一帯に 棲みついていた。それが大きく東系統と西系統に分かれたのは千五百万年前で,日本列 島のもととなる陸地が東北弧と西南弧に分かれたころにあたる。さらに東系統は三つ, 西系統は五つの亜系統に分かれた。これは多島化の時期にあたっている。日本列島が現 在のような形になってからは,別々に生き延びてきた八つの系統が,それぞれに勢力を 伸ばし合い,交雑なども起こって,現在のような分布となった。
  虫好きなら,系統図を眺めているだけで,一日経ってしまう。一般の人にもわかって いただけそうな興味深い点は,津軽・下北と北海道の同じ系統が分布していることであ る。生物の分布には,北海道と東北のあいだで違いが見られることが多く,境界線があ るとされてきた。これをブラキストン線という。マイマイカブリには,この線がない。 それ以外の東北は,また別な二つの系統に分かれている。東北地方はもともと二つの島 だったということが,マイマイカブリの分化からわかるのである。
 
 少し引用が長くなりましたが,ざっとこんなところです。
 生きものをとることは自然を細かく見ることになり,そこからまたいろいろなことが発展的にわかるようになる。そういうことだと思います。敷衍すれば,自然,そして自然の生物は価値ある情報の宝庫である,そういうことが言えるように思います。
 次の「情報と情報化の違い」はこのことにふれていて,生物の標本は模型とは違い,実在であって,「その実在から情報を起こすことが,真の意味での情報化である。」と述べられています。それは情報そのものを右から左に流すというように扱う情報処理とは決定的に違うものだということです。
 「情報を起こす」,この言葉をぼくは重く感じます。そのためのデータや標本の地道な集積,蓄積の大切さも,養老さんが指摘するところです。
 
  強調しておきたいのは,データや標本という情報を集める作業は,自然とはどういう ものであるかを把握する作業だということだ。自然は膨大で,非常にディテールに富ん でいるから,情報を集める作業も膨大でディテールに富んだものになる。われわれにで きるのは,情報を少しずつ集積し,実体と関係づけながら読み解いていくことである。 そのなかで,自然がしだいに把握できていく。それが,自然というシステムを理解する ことであり,環境問題に取り組むときの基礎になるのである。
 
 こういうところを読むと,養老さんは根っからの科学者なんだなと強く実感します。同時にまた,科学者に対するある羨望が湧いてきます。何か職人の地道な修練につながるところも感じて,黙々と継続するその姿勢,そこからしか本当によいものは生み出されないのだ,そう思うからです。
 ぼくなどはもっともそういう世界からは遠い。もう少し早くからこんなことがわかっていたら,そういう世界に浸っていたかった。そういう後悔めいたものを感じます。
 
 ここまで,環境問題とは何か,環境問題でなにが問題になっているか,環境問題をどうとらえればよいか,等々について養老さんの考えを追ってきました。
 第6章は,「これからの生き方」と題して,いわばここまでのまとめになっているように思います。
 まず,環境問題のむずかしさがシステムの問題だからということが言われています。システムというものは複雑だということと,現代人はシステムを情報化することは得意だが,逆に情報からシステムを構築したり上手に動かすことが下手になったせいだということです。
 それでも,環境問題を考えるときに,実体の情報化は必要であり,繰り返し行われなければならないということです。この実体の情報化を,専門家だけに任せずに,個々の人々が自分でやる必要があると養老さんは考えているようです。自然という場所で,五感のすべてを使って自然という実体にふれ,自分なりに情報化する。これは,生活,あるいは個々の生き方にも関わってくる問題です。
 ここから「参勤交代」という養老さんの提案が生まれてきます。はじめにこれを読んだときは,ぼくは半ば冗談かと思っていました。けれども政治家小沢一郎との対談でもこのことを言っていて,結構本気なのかと思ってびっくりしました。
 参勤交代ということで言っているのは,簡単に言うと制度的に一年のうちの三ヶ月を田舎で暮らすように国民に強制することです。一種の強制休暇,強制労働になるでしょうか。
 養老さんは,参勤交代の利点や理由などを詳しく丁寧に挙げていて,その趣旨はよく理解できました。
 一番の理由は,身体という自然の使い方を覚えることと,実際に自然の中に身体をおいて自然を身をもって実感するためです。養老さんは,「それ以外に,環境問題の真の解決を,私は思いつかない。今のままの一方的な都市生活を続けながら,環境をどうするなどと議論していても,水掛け論,小田原評定になるだけであろう」,そう言っています。
 参勤交代。これは机上の空論とばかりは言えない部分があるような気がします。かつて吉本隆明さんも,都市と田舎との交流,そこでは田舎の人が都市生活を一年くらいしてみるのもいいのではないかという印象で残っているだけなのですが,言っていたように思います。これはまあ,個人的な体験として,ないよりはあった方がいいんじゃないという程度の発言でした。
 養老さんの場合,制度を作って強制するところまで言及しているところが,より本気で言っている気がします。その本気の程度は,結びの部分に表れている気がします。そこを引用して,「いちばん大事なこと」のぼくの文章も終わりにしたいと思います。
 
  なにもしないで,「先行きどうなりますか」と他人に訊く。不景気だ,失われた十年 だ,と過去をいう。政治が悪いんだと,他人のせいにする。そうなったら,ある意味で おしまいだということは,だれでもわかっているはずである。問題は人々がなぜそうな ってしまうかである。もちろん学ばなくなったからである。学ぶとは,自分が変わるこ とである。目からうろこが落ちる。それを先生に教えてもらって,やるのではない。自 分で目のうろこを落とせ。私はそういいたい。それには生活に根本的な変化,明瞭なメ リハリをつけなければならない。
  参勤交代をして,この閉塞感をぶち壊せ。年間,日本の自殺者は三万人を超えている。 人生は生きるに値する。この数字が増えたということは,そう思わない人が増えたとい うことを意味している。生きるに値しないという世界をつくって,そこで長生きしてみ て,それがどうだというのか。それがどのような世界であれ,世界を創り出しているの は,結局はわれわれ自身なのである。
 
 
W 「スルメを見てイカがわかるか!」(養老孟司 茂木健一郎)読書ノート
 
 この書は養老孟司さんの講演,そして茂木さんとの対談,茂木さんの書き下ろし原稿とで構成されています。第一章は養老さんの講演の内容であり,二から四までの章が対談,そして第五章が茂木さんの書き下ろしとなっています。
 題名の「スルメを見てイカがわかるか!」というのは,養老さんの専門であった解剖の仕事にそって言えば,「死体を見て,生きた人間のことがわかるか」という程度のことだと思います。養老さんは若い日に,他の生物学の人たちからこの言葉を言われ続けたと言っています。けれどもよく考えると,生きて活動するイカを見て,情報,あるいは論文という動かないもの,すなわちスルメにしているのは,実は養老さんにそういう言葉を投げつけた人たちであることに気づきます。
 多くの学者さんは,生きたイカ(生物等)を研究しているというより,実際は論文というスルメ作りにいそがしい。言外に,そういう批判を含んで,養老さんはこの言葉を考えているようです。論文を書かないと学者として認められないし,研究費も回ってこないから仕方のない部分もあるようです。言えることは,論文作りはうまくなるが,逆に対象をどう扱うか,どう接するか,そういうレベルでは下手になっていくのではないかと養老さんは考えているようです。そうした例として,医者をあげています。もちろん全部が全部ではないのですが,検査のデータばかりに集中し,患者との触れあいをないがしろにする。それは何かをはき違えてしまっている。そういうことだと養老さんは言っているように思います。
 端的に言えば,この例では患者さんとの接触こそが根本的に大事なことであるのに,ということだと思います。
 これを引き延ばした先には,生き物というシステムは我々の思考を担当する脳の了解領域を越えて変化するものだから,それをわかったとか,これが絶対だとか,思い通りにコントロールできるものだとかは思わない方がよい,そういう養老さんの主張があるように思います。
 ここまで言ってしまえば,ぼくとすれば最早この本から離れてもかまわないくらいのところですが,以下,この本の語りかけてくるところをゆっくり時間をかけて聞いていきたいと思います。
 
 
 第1章「人間にとって,言葉とはなにか」
 
 自分とは何かという問いに目覚めると,人間とは何かと並行して考えるようになります。人間とは何かと問うと,心とは何かと考えていきます。
 心とは何かと問うことは,とても人間的なことで,そしてそこにはあたかも心が実在であるかのように思いなしている節があります。つまり,身体機能や脳の働きという面を捨象して心というものを考える傾向があります。文学や宗教や心理学は,そういう扱いを極度に推し進めた典型としてあるのではないでしょうか。
 逆に,心を,脳の働きや内臓の機能という側面から見る見方もあります。生物学の立場から見れば,心を身体的な何処に根拠をおいて考えることができるかというと,脳や内臓になるということなのだと思います。養老さんは,はっきりと心を「脳の働き」であると言い切っています。この章の冒頭で,「心という言葉を使わないでなんといっているのか。たいがいは『脳の働き』といっています。」と,述べています。
 三木茂夫さんという人は,ここで言っている心を,精神作用と心情作用とに区別していて,精神作用を脳の本質的な活動とし,心情作用すなわち心の働きは内臓の機能に本源があると考えていました。  
 心について,今ぼくがざっと思いつくのはこれくらいのところです。そして,ここでは養老さんの言う「脳の働き」という側面を追いかけていくことになります。
 「脳の働き」と言っても,心を念頭に置いて考えると,脳に映ったもの,つまり「意識」について考えることになります。「意識」はまた「言葉」とは切っても切れない関係にあるとぼくたちには実感されています。これは誰が考えてもそうなのではないかと思います。自己意識を意識するときに,そこには言葉がともないます。言葉を使わずに何かを意識している状態は,多分少ないはずです。無いわけではありませんが,そういう状態は無意識に近くなり,中間の意識とでも呼ぶべき領域を想定したい誘惑に駆られます。
 ところで,これらは,当然,「脳」という舞台の中でと言ったらいいのか上でと言ったらいいのか分かりませんが,とにかくそこで行われている出来事であることは間違いないはずです。
 養老さんは,「心とは何か」を考えるときに,「脳の働き」が解明できなければ解明されないものと考えているように思います。「脳の働き」の解明は,意識の解明でもあり,言葉の解明でもあると言えます。
 だから,ここでは養老さんは「言葉とはなにか」と問うています。
 養老さんは言葉について,二つ言っています。一つは,「言葉はわれわれの外にある」ということです。脳は外にある言葉に適応していきます。日本語であれ英語であれ,赤ちゃんが母国語を覚えていく。この言葉を覚える過程で,言ってみれば脳の働きがどのように進むかの方向性もある程度決まってくるといいます。このことは角度を変えていうと,脳が言葉によってその機能を規定されていくことを物語っています。言葉はパソコンに入ったOSのように,そのパソコンを規定していくといえます。
 NECや富士通,ソニーといろいろのパソコンがありますが,これらは別々に作られたパソコンなのに,WindowsというOSによって,ほとんど同じ作業ができるパソコンになります。OSが入らなければ,何かよくわからない機械にすぎません。OSによって機能が生かされるとともに,逆にほかの可能性を制御されるともいえます。
 脳にとって言葉とは,このパソコンのOSのように脳の機能を上手く生かすためのものだといえると思います。それはある意味,脳の他の機能を制御する,規制するものだともいえます。このことはまた後で問題にしたいと思います。
 言葉のもう一つの問題は,言葉の成り立ちと言ってもいい問題です。これは脳の中で言葉がどのようにできているかという問題でもあります。
 近代言語の大きな特徴として,目から入っても耳から入っても同じであるという指摘を養老さんはしています。文字の「キ」も音の「キ」も,同じ「キ」を意味するものになっている。つまり言語は,目からの入力,耳からの入力を連関させるものだということです。脳は,この時,異なる感覚の連合を行っている。そういう働きをしているというわけです。
 このこともまた大変に難しい問題で,詳しくは第2章を読みながら考えていきたいと思います。
 養老さんは,こうした問題を考えるにあたって,ロボット作りを奨励しているように思います。人間の似姿を作るにあたって,それは必然的に人間や自己を問い,他人を考えることになるからです。つまりは人間とは何か,心とは何か,言葉とは何かを問うことにつながるものであることを指摘しています。それは同時に,生きて動いている,システムというものについての理解を深めることにもつながっていく問題です。内部的にと外部的にと,人間によく似たものを作ることによって,その似たものをぎりぎりにつめていくことで見分けのつかないくらいのものができてくる。しかし,あらゆる面で人間をまねながら,真似できない部分がきっと出てくるはずだと思います。そこで初めて人工物のロボットと,自然を抱えた人間との違いが鮮明になってくるのでしょう。そこまで行けば,人間とは何か,心とは何か,という問いはよりリアルな問いとなって実感されてくるに違いないと思います。
 
 第2章「意識のはたらき」(養老孟司・茂木健一郎)
 
 この章では言語,意識を正面から論じていて,いわばこの書の中核を形成する部分であるといえると思います。
 はじめの方では,養老さんは言語の起源の内的な要因を「異なる感覚の間の連合」という言葉で定義しています。つまり,異なる感覚の間の連合が脳の中で行われていて,これが意識および言語の起源というものの内的な要因となっているというわけです。先ほど述べたように,その手がかりとなるのは,言語の目からの入力と耳からの入力が同じというところにあるといいます。
 次に「リンゴ」という言葉を取り上げて,それが様々な音で発音されていたり異質な文字で書き表されたりしているにもかかわらず同じ「リンゴ」を表す言葉として流通している事実が指摘されています。そこには内的存在としてのリンゴと外的存在のリンゴがあり,人間の意識はあらかじめ「リンゴはリンゴ」だということを決めているのではないかというようなことが言われています。その根本は,人間の自己意識の,自分は自分であるという同一性の保持の働きに起源があるのではないかということも言われています。
 意識の属性としてあるこの同一性が,言葉を成立させる重要な条件となっていて,この条件の下に言語が成り立っている。そういうようなことも言われています。
 この章のはじめの方での二人の会話を聞いていきますと,大ざっぱにというか非常に乱暴にというか,ぼくなりに受け取ったところをいいますと次のようなことになります。
 「リンゴ」というものは,外に実際にあるものとしてどれ一つとして同じものはない。それぞれには小さなあるいは大きな差異がある。また,ぼくたちの脳の中にある「リンゴ」というものもまた,彼我において非常に違った「リンゴ」であるはずです。イメージとしての「リンゴ」も,一人一人の「リンゴ」体験の違いによって非常に異なってくる。
 このように考えると,内外において,実体としての「絶対リンゴ」というべきものは存在しないように思われてきます。けれども,どこかに「リンゴはリンゴ」だという規定の仕方が存在しています。言葉がそれを規定しているのか,言葉の母体ともいうべき意識がそれを規定しているのかわからないのですが,とにかく,同一でなんかあり得ないのに,それらすべてを同一の「リンゴ」という言葉で括ることができている。どんな異種が発見されても,従来になかった新種が作られても,それらは「リンゴ」という枠の中に納められるようになる。「リンゴ」という枠は,ある意味無限に拡張可能といってもいい。でも,どこかに「リンゴ」としての条件があるには違いないはずです。
 こういうことはどこからっきょうの皮むきに似ています。具体的な「リンゴ」というものを辿って「リンゴ」の本質に至ろうとすると,「リンゴ」は見えなくなっていきます。ただすべての「リンゴ」を網のように囲い込んでしまう「リンゴ」という言葉だけが,実在のない枠としてだけ残る,そういう気がします。
 実際のところ,ぼくがいう「リンゴ」と誰かがいう「リンゴ」は,同じものを指しているということはないはずです。にもかかわらず,会話は成り立っていきます。よく考えると非常に曖昧なところで会話が成り立っている。しかし,これが本当に曖昧かというと,決してそうとばかりは言えないところもあるわけです。意識のレベルでは,大変リアルな会話と言っていい,そう言ってみることも可能だと思います。
 次に,身体の「内・外」などについても養老さんと茂木さんとの議論が続いていくわけですが,これまた養老さんは,そういう分け方が意識の持っている特性だと考えた方がいいと述べ,茂木さんは,これが人間に限らず生物一般が上手く生きていく上で不可欠な要素としての基本的な世界のつかみ方と考えた方がいいのではないかと述べています。
 このあたりになってくると,もうぼくなどにはどうしようもないところで,考えるとよけいにちんぷんかんぷんになってくるところです。
 ここではただ,アメーバーのような生き物をを想像しました。ある方向に進もうとして,身体の一部をのばし,ふと引っ込めるというような場面です。そこにアメーバーなりの認知があるのだろうと想像するわけです。原理はわからないのですが,そこに,「同じ・違う」の判断も働いていると思うわけです。判断というより反射なのでしょうが,それにしても,原始的な意識というものが感覚と不分離な形で存在するのではないかという想像は成り立つのではないかという気がするのです。
 素人なりに,こんなことを思いながら読んでいるわけですが,おもしろいと同時に,非常にいい加減な読みであることも事実です。これをどう文章化すればいいのだと。要するに悩んで,挫折の一歩手前な訳です。
 
 投げ出したくなるところを,蛮勇をふるって,進めていこうと思います。Uの「コミュニケーションと強制了解性」に入ります。
 まず,「言葉における個人差と強制了解性」の話がなされています。言葉の強制了解性とは,言葉ができない人のことを考えるとわかってくることです。今の社会では,言葉ができない人は,施設に入れられてしまいます。このことは何を意味しているかというと,人間の社会が,言葉を不可欠のものとして成り立っているということです。
 チンパンジーの知性を考えるとわかるのですが,言葉を持たなくとも,その能力の高さは理解できます。しかし,知的能力が高くても社会の一員とはなり得ません。言葉を通じて分かり合う,了解しあえる,そういうことがなくてはならないのです。言葉を通じて,こうだああだと強制的に説得できるシステムが成立する。人間の社会はその意味で,徹底的に共通了解を高めてきた。言葉が,その了解を媒介してきたといってもいいと思います。そこに,言葉の強制了解というものがあります。
 もっというと,例えば3+3=6という算数の計算は,絶対的な力で我々にこれを理解するように求めます。これを発明しているのは今のところ人間だけです。これには否定できない力が働いている。あまりにも当たり前すぎて,考えることも少ないのですが,しかしよく考えてみると,これを了解するように働きかけてくる強制力といったようなものは尋常ではないという思いがします。人間だけですし,言葉の発明以後に起きた出来事です。要するに,有無を言わさぬ力があるのです。あるいは自ら納得してしまう。このように,人間社会はお互いがそうだと認めるほかない方向に進む傾向がある。
 なぜこういう万人が肯定するほかないものが生み出されたかといえば,我々の社会の成り立ちが,もともとそういう形で成り立っていたからというほかありません。共通の了解というものが必要であって,言葉は,もっとも本質的に共通了解を表現するものでもあるのです。
 言われていることは,ざっとこんなところだと思うのですが,もう少し踏み込んで言うと,人間の社会は了解性から成り立っているとして,これをどんどん高める方向に進んでいると思うのです。逆に言うと,社会は社会自体を了解するように個々の人々に向かって強制してくるという現象が起こります。学校があり,生涯教育などといっているのはそういう自体の裏返しでもあると思います。分からないと生きにくいということです。逆にすっぽりとこの了解性にはまりこめば,大変生きやすい,そういうシステムであるかもしれません。
 教育や学校の世界でいうと,教育や学校は必要なもの,なくてはならないもの,よいもの,という前提が成立しています。そうなると,内部において教育とは何かを考えるということがなくなります。
 教育に懐疑的であることは,教育の世界から追い出されることです。同様に,社会に懐疑的であることは,社会から追い出されるという危険がつきまといます。有無をいわさぬ肯定,強制的な了解の元に立たないと,何事も始められないし,存在できにくくなります。 この強制力に抗するのもまた言葉の力に依存しています。ぼく自身,これこれこうだろう,ということを,今ある既存の言葉とは逆向きに形成しようとしていることになると思います。
 とりあえず,ここでは了解性,そこに働く強制力に目をとめてきました。養老さんたちの話から,そのことに気づいたということです。
 これはまた,自閉症と呼ばれる人たちのように,言葉を持たない人たちにとっては,大変生きにくい世界であることも考えておかなければならないことだと思います。言葉を持つ我々には当たり前の世界のようでもありますが,人類の出自から振り返って考えてみると決して絶対的なものであるとは言えないでしょう。言葉はなくてもすんでいた時代があったということです。動物よりの時期を想定すれば,そもそも言葉は必要ないものであったとさえ言えるのだと思います。それがどうしてこうなったか。本当に考えることが大切になってくるのはまだまだこれから先のことだという気が,ぼくにはしています。
 このあたりでぼくがもう一つ興味を持ったことは,茂木さんの,「言葉はロジックによって生み出されるというよりもある感情を持つと勝手に生成されるのではないか」という言葉です。その例としてカプラグの妄想,解離性同一性障害などを挙げています。感情のずれ,感情の分裂,それを合理化するものとして妄想というか別人格の細かいディテールの構築というか,要するにこうしたことに伴っての言葉が苦労なしに生成されるという点に注目しています。
 別人格の人物を,小説を作るときのような苦労なしに生成できるということは,これは大変な能力ではないか,と思うのです。これは脳のメカニズムがオートマティックに生成しているといってもいいものだと思うのですが,逆に,それでは創造性とは何かという疑問も生じてきます。
 こういう妄想を含めて,養老さんは,合理化とは脳がラクになることだと述べています。「神の声」の幻聴などは,例えばてんかんの小発作などに伴って自分の意識を意識できる範囲が狭まり,意識できない意識が外から入ってきたと錯覚するところに生じるというようなことを述べています。つまりそれが神の声になるということです。これを幻聴として悩むよりは,「神の声」が聞こえると思っていた方が,その人の脳にとってはラクだ,そう言っています。
 これは,自己意識が実際の自分の意識よりも狭まることを言っているものだと思うのですが,反対に,意識が肉体を超えて広がってきていることも指摘されています。例えば車を蹴飛ばされて怒るというようなことは,そのような例だとして挙げられています。自分の身体の範囲が,実際の自分の身体を超えた範囲に広がって意識されるということだと思います。車を蹴飛ばされても自分の身体は痛くも何ともないのに,身体を蹴飛ばされたと同様に怒りを感じるということ。自分の身体の範囲が広がっているのだということだと思います。
 興味の尽きない問題が提起されていますが,今これをどうこうできることでもないので,また先に進んでいきたいと思います。
 次に,先のと関連しますが,『レインマン』で有名になった「サヴァン能力」について言っていて,これは脳の抑制がはずれて,元々ある脳の潜在能力が発現されるものだというようにとらえているようです。「ノーマルな脳」とは,だから,社会の約束事にすぎないという言い方もしています。
 現在のところ,脳は共通理解できる部分を鍛えて,社会に奉仕させられてきた。これは今ふと自分が思ったことにすぎないのですが,これには近代科学がまた大きく影響しているように思います。もちろん,マルクス主義もあると思います。
 マルクス主義は現在の資本主義社会の形成にとって,ある意味裏側で支えている。あるいは支えてきた。科学は隆盛を極めているが,他の精神は袋小路に陥っている。
 文句が言えない社会の到来なのです。
 ところが,その世界が成り立っている根本に言葉があり,この言葉が実はつじつまの合わない問題を抱えている。どういうことかというと,例えば「木」という言葉が何を表しているかというと,非常に曖昧で,人それぞれに違った「木」を念頭に置いて,それでいて会話が成立するというようなことがあります。一事が万事で,実は会話は,曖昧な了解の上に成り立っていると言ってもいい。そう思います。それなのに,言葉は絶対であるかのようにこの社会に君臨しています。あるいは言葉は一人歩きをしていて,ある時は個々の人間に,社会システムの側からの言葉として命令するように働きかけてくる。強制する言葉として働きかけてきます。つまり,こうしてはいけない,ああしてはいけないというように,です。
 「考え方が押しつけられる」。これが養老さんの言う強制了解だと思います。
 あるまとまりがあると,そこでは考え方の共通了解を高めるような作用が働きます。まとまりの成員が同じような考えになるわけですが,そうなると,今度はその中での考え方が強制了解として,新規参入者に向かって押しつけられる。そう言う形で「まとまり」というものは成立していると言えると思います。ある意味,非常に不自由な世界で,またその不自由な中で考えなければならないという中で,ぼくたちは考え,生きているといってもいいのかもしれません。
 養老さんは,学会を業界だといい,共通の利害関係で動いている団体だから,ほとんどの学会が嫌いだと言っています。それは,他人と違うことを考えたり行動しようとすると,とたんに不自由さを感じるものだと言うことです。そのことで思うのは,教育や学校の世界です。ぼくは,教育とは何か,学校とは何か,ということに興味があり考えてきましたが,この業界の中でそれを問題にしたり議論したりする場は全くありませんでした。乱暴な言い方ですが,教育や学校の現場でやっていることは,いかに上手く,ということはソフトに,洗脳するかと言うことだけです。洗脳というと,北朝鮮やかつてのオウムを思い浮かべますが,何,この高度資本主義の中にあったってそれほど違ったことはやっていない,そう思います。違いは,ただソフトかどうかということだけです。
 養老さんは,共通了解ができあがってしまった大人を相手にするのはイヤになり,今では子供を相手にしているのだそうです。保育園で,体験的な教育を行っているようです。膨大な知識と教養,学問的研鑽を背景とした養老さんの虫取りの勉強は,子供たちにとって最高の経験でしょう。
 ここからVの「言葉の流通性」に入ります。まず言葉の流通性ということを取り上げています。言葉は,非常に流通性があるとともに,その中には流通性のない要素もあることを指摘しています。結局そういう流通できない細部は切り捨てられてしまっている。そういうことを言っています。対談では,日本語と英語について話し合われているのですが,要するにネイティブスピーカーという問題について問題を投げかけているようです。その語を母語とする話者に,かないっこないのではないか。つまり,細部のニュアンスが分からない。そういう問題がつきまとうことを指摘していると思います。これは方言の問題でもあり,もっと言えば個人間の言葉の流通,意思の疎通の問題にもなる気がします。
 ここから,言葉はコミュニケーションの一部にすぎないのではないかという問題点が指摘されます。言葉に含まれないところの感情や心を読み取るといったことが,コミュニケーションには大切であるということです。読み取れると言うことは,逆に言えば共通の持ち物だからこそ読み取れるのだということになります。養老さんはこれを,「お互いに了解して共通に持っているものしか,人間の普遍的な心にはならない」という言い回しでいっています。心の病と呼ばれるものは,この共通性からはずれるから,問題になってくるのだと思えます。つまり,ちょっと違うぞ,と。それは非常に個性的であると言えば言えるけれども,社会にあっては意味をなさないという事態を迎えることになります。
 この後,まあ養老さんたちらしい会話が続くわけですが,特に取り上げたいと思うような話のやりとりではありません。コミュニケーションにおける最近の傾向としての言葉の氾濫,饒舌,世代間の言説のずれ。そういったものについて述べられています。強いて言えば,各世代間の体験の違いが大きく,コミュニケーションが成立しない危機を感じている言葉などが気になるところです。語られる言葉を裏打ちする背景が違っているということ。会話が成立し,コミュニケーションが成り立っているようでいて,その内実は全く異質であるというような事態。日常生活の違いが感覚の違いとなって,何とはなしに,ニュアンスまでも含めた了解には至らない。そういうずれといったものは確かに世代間で生じているのではないかと思います。僕らも含めた若い者に,自信がないというのは,どこか人工的な環境に取り巻かれて育ってきたせいかなと思わないではありません。若者は優しくなってきています。その裏に,しかし,一歩間違えば度を超した残酷さも見え隠れします。このあたりではお互いに世代を分かり合っていないということが生じているといっていいのかもしれません。
 ここでは最後に養老さんが語る言葉に心を止めておきたいと思います。それは以下のような言葉です。
 
 だけど,結論から言えば,今の若い人に比べたら,ぼくは社会についてはものすごく楽観的なんですよ。いくらでも,ひどい状態を見ているから,今社会にあるほとんどのルールが壊れたって平気ですよ。人間が作っている社会って,ルールが壊れたくらいでどうかなるような,そんなに不安定なものじゃないんです。若い人にはその経験がないから,今の社会のルールがすべてである,という前提から考えて,不必要に不安になってしまうのでしょうけど。
 
 社会や社会のルールは,ある程度の期間修正を施しながら進むということがあります。ですが,大概,ある時期にご破算にするようにして,ルールやその他を組み立て直すという時期を迎えます。そうやって歴史は繰り返して発展きました。いざとなるとそういう浄化作用というか,やり直しの時期を迎えるように,これまでの歴史はできています。そこで変わらぬものは,食糧の確保と供給というそれだけのことです。人間の社会も,いざとなったらそれだけのことだと,そう思います。
 
 第3章「原理主義を超えて」
 
 ここで原理主義というのは,簡単に言えばある考え方を絶対のものとしてその他を排斥する傾向にある考え方を指してそう呼んでいると思います。極端にいえば,そういう考え方に自分の生死を委ねるところまで過激な主義を,そう総称していいのかと思います。ほとんど宗教的なもの。
 しかし,これにはもう少し目に見えない形での原理主義という考えも含まれていて,従来の養老さんの主張である脳化社会,都市イデオロギー,あるいは意識そのものの持つ特性なども考慮されているように思います。
 要するに,頭の中の生活,そのことによる怖さや弊害を,大きくは問題にしているような気がします。決してそれがいけないのだと主張しているのではないのですが,それが意識のこしらえものだよという反省がないところに警鐘を鳴らしている。そういう気がします。身体や自然,意識以外のそういう諸々の見直し,意識通りにならないものの価値,それをもっと認めなければならないですよと,言外に言っているような気がするのです。曖昧さ,いい加減さを許容するということ,ぼくなりの考え方をすればそういうことになります。
 先の,イスラムの原理主義の行き着いた果てとしての9.11のようなテロ事件。またはその前の日本におけるオウムの事件。意識の働きとして,強度に「信じる」ことのもたらす危険。そのことによって,ふつうならあり得ないことを成し遂げてしまう怖さ。これが言葉なり意識なりの本来的な怖さであるという認識。ぼくは養老さんの考えから,そんなことを思ってきました。「こしらえもの」,「人工物」。幻想に属するものであるはずなのに,実体以上の強制力を持つものということです。
 経済に目を向けると,これが架空のシステムでありながら非常に強固なものとして立ちはだかっているというように見えてきます。
 行き詰まりや閉塞感としてあるのは,高度に意識的な社会システムから,高度に意識的な生活を強いられてくるからだと思います。ここに都市化の弊害がある。単純にいうと養老さんはそう主張しているように思います。もちろん,これは説明が面倒なので,乱暴に詰めてぼくがそう言っているにすぎないのですが,そういうことだと思うのです。そうして結局は自然に即した生活を体験した方がいいと,そう養老さんは提案しているのだと思っているのです。それが次の章の「手入れの思想」に繋がっていきます。
 
 第4章「手入れの思想」
 
 これは,要するに,離婚という選択権のない結婚生活です。くっついたり離れたりしながら,終生共に暮らしていくというあり方に似ています。調和がとれていく,そういうあり方でもあると思います。関係のあり方において無理をせず,少しずつ折り合いをつけていくということ。
 子育てにおいて,気長に根気よく接し続けるということ。強引に矯正しようとはしないということ。
 そこには,意のままにならない自然を相手にしているのだという意識が働いていなければならない。「こうすればああなる」とか「こうでなければならない」とかはあまり重きを置いて考えない方がいい。種をまいて,どう芽を出して育っていくか,じっと見守る,そうした手や口を出さない時間もまた必要である,そういうことだと思うのです。
 
 
 以上,「スルメを見てイカがわかるか!」の第1章から4章までを見てきました。5章には,茂木さんが養老さんの「手入れの思想」の解題のかたちで「心をたがやす方法」を書いています。これについてはここでは取り上げないことにしました。
 第1章から,どう書いたらよいか苦戦を強いられ,第3章の「原理主義をこえて」からは意欲を失ってしまいました。理由はいろいろつけられますが,いずれにせよ,能力の限界であり,意味のない文章を書きつづっているというところから,次第にやる気をなくしてきたと思います。書くことに集中できなくなりましたし,読むことでも,何か,自分には遠いことだなと感じたりもするようになっていました。
 対談の中の言葉に,どうコメントしていくかというのは,相当難しいことだなと反省しています。やたらにどう書いたらいいかと思い悩み,空白が生じ,筆が進まない状態が続きました。ここで止まっているわけにもいかず,どんな形にせよ,とにかく終わらせることに最後の力を振り絞ってきました。これで,終わります。